2022年6月3日金曜日

生殺与奪の権と受信機

生殺与奪の権について

 私の生殺与奪の権は、師匠の親神様が握ってらっしゃるんだ。今、気づいてしまいました。

 だからって道教の教える無為自然に生きるとかじゃなくて、自分の頭で一生懸命考えて世の中に尽くすための自由というか多少の権限は与えられていて、そこで頑張るんですね。

-----私は何かに任せないといけない事は多いけれど、全てが無為自然じゃないから、無為自然って無責任な感じがして好きじゃなかったんですよね。この世の中が、VRのようなもので事物に対する執着を異常なまでに批判する勢力と通じるというか。過度な執着はやはりダメですが、この世の中の現実を見据えて行動を起こそうと思った時、あきなめない心ってとても大切です。この世の現実が泡沫のような「この世は仮想現実」っていう表現は、折角の70年の人生を無駄に過ごしてしまう決定ワードになりうると考えているんです。まあ、それでも、公共の福祉に反しない限り、各自が信じるところに従って生きる自由は尊重しないといけないとは思います。

受信機について

 人間の霊的な受信機、これをフル活用するのが良い事なのかなって思う節が私にはあったんです。でも、勘って正しくないなというのか、限界が低めにあるというか、そういう体感をもっていました。勘で分かったかな?ってことは、面倒でも一から自分で考えて 調べてを繰り返し、勘が正しいか検証する必要があるという感覚です。それでも、忙しい時は、なおざりになってしまいがちですが。
 こんな生活を繰り返して気づいたことは、本当に重要なことって、外からの信号で送られてくるんじゃなくて、自分の中に埋もれている、深い自分(己)はすでに知っていることなのかなって思うようになったんです。一生懸命、正しい方法で探し求めないと、発掘できない金塊みたいなものなんじゃないかなと。
 ある方の小説を読んでいると、自分は知り得ないはずなのに、なんとなく過去の記憶とオーバーラップする感覚を抱くことがあって、少し怖かったんです。
 でも、今日になって、これはどこかで起こった事象をお互いに共有している可能性があるのかなということに気づいたのです。先様は、きちんと調べて考えて小説という形に仕上げてくださって、私が読ませていただいただけだと思うんです。
 
 受信機に頼ると、変な信号を受信してしまうんです。精査を怠ると、本人は自分の中から湧き出た情報と勘違いして、とんでもない言動をしてしまうんです。最近、SNSでは工作員まがいの発信が増えていて、ここまで多かったっけ?と不審に思っていたんです。よく観察していると、本人は極めてまじめで悪いことをしているどころか、正義に立脚していると確信して発信しているようなのです。それで、最近ではインチキな電波的な何かが猛烈に増幅されてきていて、それをたくさんの人たち受信して発信しているんだなと思った次第です。