2020年3月23日月曜日

ソースはどこかな?


 私は、よく“乗っ取り”という言葉を使います。
 組織の乗っ取りに出会ったこともあります。逃げるのが精一杯な状況で、私はいつも被害者でした。でも、組織の乗っ取りも、第一段階は主要な人の乗っ取りから始まるのかなと思うようになりました。
 ネットを10年近く観察していると、やはり人格が変わってしまう人が続出するのは本当です。初めは顔が見えないから、ブログごと売っぱらったのかなとか、いろいろなネット上の意見に賛同しては反対して、と言った感じでした。でも、人が乗っ取られる、つまりウォークインがあるのだろうなと思うようになりました。
 大体の人は、内部まで、ズカズカと他の人格を持つ霊が入り込むことはないのです。と言うのも、守護神(霊)様が守ってくださるからです。でも、悪い霊団に取り囲まれて窒息状態になるのが第一段です。この時は苦しいです。でも、自分の魂の方向を向ける先を正しく保つと追い払える可還状態です。でも、守護神(霊)様がもう無理だと判断なさると、手を引かれるので不可還状態になり、これがウォークイン的な状態かなと思っています。
 
 話が変わりますが、ヒットというもののソースはだいたいは光だと思います。イルミ発のものって、ドクロのイラストとか 人間には受け入れがたい趣味の悪さ(ドクロは光も揶揄して使うからなんとも言えませんが。)、もしくは、パクリばかりです。パクっても悪趣味だけは漂う最悪感満点。

 パワーをもらって人生上り調子の時に、訪れる岐路。どなたにでもありますよね。その選択はなかなか悩ましいです。つい、反道徳的なことを考えてしまったり(汗)。そんなもんですよ、人間って。もらったパワーの使い道の選択が人生の岐路だと思うのです。
 この時、自分にこの案件を処理するパワーソースは一体何なのか?それに対して強い感謝を持っていれば、そのソースが望む選択をしたいと思い、一生懸命考えたら、まず間違いない選択ができると思います。ただ、若い時には、偶然の積み重ねと自分の努力が成功だと思い込んでいますから厄介です。





 百ワニも、これだけ人気をはくしたのですから、初期パワーの源は、たぶん光でしょう。ただ、作者に関しては、パクリの可能性は現段階では否定も肯定もできません。この傾向は、人間を前面に押し出して得られる人気を持つ「芸能人」、「ネット人」では、さらに顕著になると思います。パクリとかしようがないのですから。ただ、このような方々でもパワーのソースは自分の努力と偶然の幸運と思っている人は、概して悪魔にそのパワーを売ってしまう傾向がある気がします。だから、大器晩成っていう言葉があるのでしょうが、これも、早いうちに脱落しなかったというのが条件です。なぜかと言えば、大器晩成って場合、だいたいは若いうちから地味でもしっかりした実績があるものです。

 
 しかしながら、人間にも爬虫類系にも宇宙の法則では人権が認められているから、選択の自由があって、もらったパワーの使い道は貰った人が決められるのです。もらえるパワーはその人の魂の力量の応じているとソクラテスさんがおっしゃっているので、力量の小さい魂は、ヒトラーさんのようにビック悪(ヒトラーさんは織田信長的な方だと。荒の神様?ま、たいらに言えば、ジェダイ的ご存在かしら)にはなれないように、安全装置があるらしいのです。各存在が悪い選択をすれば、それ以後の光からのバックアップがなくなるだけで、必要に応じてカルマの法則で処理されていくのです。やはり、整然としている宇宙ですね。

 話が飛んでしまったので、最後にまとめると、乗っ取られないためには、強欲とかをなくすのも大切ですが、なんと言っても、自分のエネルギーソースはどこなのかを、一度じっくり考えてみるのが重要だと言いたかったのです。
 

 

2020年3月18日水曜日

廃仏毀釈 備忘録

 明治時代に入って行われた廃仏毀釈が、正直よくわからなかったのです。
 ようやく、なぜ行われたかわかったので、備忘録で記します。


 江戸時代までは、神社とお寺はとても仲良しだったとのことです。しかし、明治政府は、天皇中心の日本を作るため、アマテラススメラミコトの子孫であるとする天皇家の格を上げるために、庶民から支持を得ていたお寺を弾圧して神社の格をあげることをしたのだそうです。

(なるほど、そうだったんだと思いました。)

 しかし、人間にとってフレンドリーな教えって、きっと仏教ですよ。だって、神道の祝詞聞いても、チンプンカンプンですもの。

 もちろん、始めから格が上なのは神道なのでしょう。仏教が普通の庶民でもわかる教えになってなるのが、その際たる証拠だと思われます。

 百田史観の日本国紀では、日本の禅僧の問答のレベルの高さに触れています。日本の仏教を軽蔑する記述はほとんどないので、廃仏毀釈についても、期待したのですが、ほとんど触れていません(1)。ただ、世の中には、個人史観で学術書でなくとも、なかなか、鋭いことを書いている本も数多あります。

 ここで私が学んだことは、大日本帝国憲法に価値を置けば、明治以降の歴史が天皇中心の記述になり、天皇を重要視せず個人の正しい行いについての教えを展開した仏教は弾圧するということです。その愚劣な行為を隠蔽するために、廃仏毀釈への言及はしなくなるということです。

 一方、日本国憲法に価値を置けば、庶民を無視した天皇家と政府への批判が中心になるのだろうと考えられます。そして、この立場を取った時に見えてくる神道と仏道(教)の関係が、とても生き生きと私に迫ってくる感じがしました。

 時空を超えたハルマゲドンで、過去生でも光と悪の戦いが繰り広げれれているそうです。親鸞さんは仏魔に敗れ、日蓮上人も聖明王も敗れました。
 親鸞さんは、本当にチヤホヤされて甘やかされたお坊さんという印象を持っています。これは、法然上人とは決定的に違うと思います。
 日蓮上人は、「南無妙法蓮華経」って、お経を拝むのを奨励しました。
 師匠がおっしゃったのは、
“お経は唱えるものであって、拝むものではない”
とのこと。
 「確かにな!」
と思いました。お経を唱えることを推奨したのは、法然上人でしたが、もうそれしか道がない疲弊した人たちに阿弥陀仏(多分、お釈迦様とほぼ同一)への帰依を宣言するお経「南無阿弥陀仏」を推奨されました。余力のある人には、いろいろな勉強を奨励していましたよ。
 なんで、日蓮上人は、こういう顛末を辿られたのでしょうか? 

 彼らは、現代人として、転生していると思います。それなりの名声を得ていることでしょう。それらの転生が全て連動しておかしくなっているはずです。そして、その呪縛はきっと現代にも、重くのしかかっているでしょう。


 参考文献)
1)百田尚樹『日本国紀』が書けなかった日本近代史の真実とは?(https://note.com/horishinb/n/ne29abe0b9b61)