2022年4月28日木曜日

呪詛の使える猿とお金を運ぶ猿

  善悪をきっぱりと分けて、善ばかりをまつる、ありがたがる!

 なぜ?悪は自分に不利益を運ぶからと思っているから、思わされているからだとも思います。


 でも、悪が起点で起こったものだって巡り巡って自分にはある意味ラッキーとしてやってくることもあるんです。

 それが、この世の中がつながっていて独立して存在しうる個はないということなのではないかなと最近はつくづく思うんです。


 そうなると、悪だった自分のご先祖様を排除ということはしないのかもしれないです。だって、その方と自分は赤の他人よりもずっと繋がりが強いのですから。だからそうじゃなかったご先祖様と同じようにお墓に入れて、先祖代々の御霊にナムナムと祈るというのが大切なのかもしれないです。これを古来の日本人は知っていたんじゃないかなと思うんです。


 悪を悪と認識するのは大切だとは思うんです。近しいのであれば、相手が善に立ち返って欲しいと心から祈るのなら、注意喚起も務めだと思うのです。でも、悪だからと排除というのは人間の範疇外なのかもしれないです。だから人を裁いてはいけないと聖書は教えていらっしゃるのかもしれないです。


 悪を徹底排除しようとしたのが、キリスト教なのかもしれない。それで、西欧の中世、近代とあの血生臭い世界を作り上げてしまったのかなと。悪なら何をしても良いという洗脳が、それが拡大して社会に貢献しなければ何をしても良いとエスカレートしていく。今の万世一系教の人たちの論調も何だかそう見えて仕方ないのです。悪いところをすごく突っつく、そして論敵にとってどんなダメージを与えても良いというリミッターを外してしまう。そしてそれが様々な方面へ広がった時、とてつもない恐ろしい世界が待ち受けているんじゃないかなと。


 今のロシアとウクライナの戦争だって、呪詛の使える猿(ロシア)と呪詛が使えないお金を運ぶ猿(DS)のやらせ戦争。リミッターが外れた人間たちの念を集めて世界大戦を狙っているんだと思えてなりません。呪詛の使える猿がQなんですね。呪詛が使えないお金を運ぶ猿が資本家。どちらもイルミです。

2022年4月27日水曜日

自分にとっては音楽は演奏するものじゃなくて、元気をもらうものなのです。

  予備校の時に物理を教わった先生で、とても明るい先生がいらっしゃいました。物理をやる方は、どうしても内向きというか、インキャというか、そういう人が多いのにとても稀なケースだなと思いました。予備校ってひたすら問題を解くんですよ。だから基礎的なことは既習済みみたいな感じなのです。そういった部分では、理科の勉強は少し味気ないことになるはずですが、この明るい方の先生は、解答解説になんだかニコニコしながらとてつもない命題を入れ込んでくるんですよね。そして、気のせいか いつもまんべんの笑みでこちらに微笑みかけてくれて…。

 自分は心の中で、
「いや、この部分は蜂の巣的でして、突っついたら最後、永遠ループで高校で悩んで心の奥深くに沈めた疑問、これを知らなくとも点数は取れるから、いまはメンゴです!」と言いながら、ノートをとるわけです。
 理科系も好きだったのですが、まずは安定した会社に就職したかったんです。そのためにどうしても学歴が必要だったので大学合格を ひたすら念じていたんですよ。よそ見している暇はないというかなんというか。
 せっかく良い会社に就職できても辞めちゃったし、専業主婦ですが、あの先生の数個の命題が、今となっては近くにあるから不思議です。今から考えたら、その先生は未来人か宇宙人、いや生き通しの神様の代弁者でらっしゃったんじゃないかなと思うのです。だってオーラが…。

 原稿を見なくちゃいけないのに、家事をしなきゃいけないのに、やる気が起きないというか、少し元気が足りない時、音楽を聞いて鼓舞しながらやるんです。
 そして、一緒に鼻歌歌って、ヤサ エエエンヤーアサノ ドッコイショって、元気を出すんです。
 自分にとっては音楽は演奏するものじゃなくて、元気をもらうものなんです。

2022年4月26日火曜日

霊界物語 第二十九巻 第八章 高姫慴伏(ショウフク;おそれおののいて平伏すこと)〔八三〇〕


https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm2908 様より引用

 ヒヽヽ、日の出神の生宮も、世界の人民がウンザリして居るぞよ。モウそんな黴の生えたコケおどしは使はぬが能からう。

フヽヽ、古臭つた文句を百万ダラ並べて新しがつてゐる其方の心根が愛しいワイ。
ヘヽヽ、下手に魔誤付くと命がなくなるぞよ。
ホヽヽ、時鳥喉から血を吐きもつて、国治立命は其方の慢心を朝夕直したいと思つて御苦労を遊ばして御座るぞよ。
マヽヽ、曲津の容物となつて居乍ら、誠の日の出神ぢやと思うて見たり、時には疑つて見たりし乍ら、どこ迄も日の出神でつつぱらうと致す横着者。
ミヽヽ、蚯蚓の這うた様な文字を列ねて、長たらしい日の出神の筆先だと申して、紙食ひ虫の墨泥棒をいたし、世界の経済界を紊す身の程知らず奴
ムヽヽ、昔の昔の去る昔、まだも昔のその昔、ま一つ昔のまだ昔、大先祖の根本の、誠一つの生粋の大和魂の御種、変性男子の系統、日の出神の生宮とは、能うも云へたものぢやぞよ。
メヽヽ、冥土の鬼迄が愛想をつかし、腹を抱へて、其方の脱線振りを笑つてゐるぞよ。
モヽヽ、百千万の身魂の借銭を、日日毎日つみ重ね、地獄行きの用意許り致してをる其方、今の間に神の申すことを聞いて、心を洗ひ替へ立直さぬと、未来が恐ろしいぞよ。
ヤヽヽ、ヤツサモツサと朝から晩迄、騒ぎまはり、
イヽヽ、意久地を立通し、威張り散らし、己一了見で教主の意見も聞かず、可愛相に黒姫や鷹依姫、竜国別、テーリスタン、カーリンスに対し、国外に放逐致した横暴極まる其方の行方。
ユヽヽ、雪と墨と程違つてゐる瑞の御霊を、酢につけ味噌につけ悪く申し、自分の勢力を植付けようと致す横着者。
エヽヽ、エライ慢心を致したものぢやのう。
ヨヽヽ、世の中に吾程エライ者はない様に申して独り燥いでも、世の中は割とは広いぞよ。お前の云ふやうな事は二十世紀の豆人間の没分暁漢の中には、一人や二人は一度や二度は聞いて呉れるであらうが、四五遍聞くと、誰も彼れも内兜をみすかし、愛想をつかして逃げて了うぞよ。
ラヽヽ、『楽な道へ行きよると道がテンと行き当つて、後戻りを致さねばならぬ変性女子の行方を見よれ、人の苦労で徳を取らうと致し、楽な方を行きよるから、あの通りだ』と、自分が後から潰しに廻つておいては、愉快相にふれ歩く、悪垂れ婆の宣伝使。
リヽヽ、悧巧相な事ばかり申して居るが、テンで理窟にも何にも、お前の云ふ事はなつて居らぬぢやないか。
ルヽヽ、留守の家へ剛情ばつて押入らうとし、生田の森に玉能姫に剣突をくわされて往生致したヘボ宣伝使。
レヽヽ、連木で腹を切れと云ふやうな、脅し文句を並べて信者を引込まうと致しても、そんな事を食ふやうな馬鹿者は此広い世界に只の一人もありはせぬぞよ。
ロヽヽ、碌でもない真似をするよりも、一時も早く聖地へ立帰り、改心致して神妙に神の御用を致すがよからう。
ワヽヽ、分り切つたる団子理窟を並べて、人を煙に巻く
ヰヽヽ、イカサマ宣伝使。そこら中を
ウヽヽ、ウロつき廻つて、いつも糞をたれ
ヱヽヽ、枝の神と知らずに、根本の日の出神ぢやと誤解を致し
ヲヽヽ、おめも恐れも致さず、世界を股にかけて、法螺吹きまはる、ガラクタ宣伝使、口の悪い神ぢやと申すであらうが、昔からスツポンに尻を抜かれた様だと云ふ事があらうがな。其方が池の底のスツポンと認めた此方が、其方が悪事の一切をスツポ抜いてやりたぞよ。ウヽヽ、ブルブルブルブル』

 仏典の中に#仏魔仏教 が、神示の皮を被った#神人靈媒日記 などに 我よしの教えがちりばめてあって、何か可笑しくてよく分からないものは、遠ざけた方が無難です。
 普通は信じないですよ、だって無茶苦茶、脱線しているもの。でもね、これ集ストとか霊団に襲われて切羽詰まった心で、この主張をする人たちと付き合うと、不幸が一時的に止むんだそうです。
--まあ、原因はあいつらだからな、やめるのだって自由だわ。--
 それで、あんなバカな主張が真理だと勘違いしちゃうんです。

 人の心持ちによって
色(虚)が真理(空)【色即是空にもなるし、
真理(空)は色(虚)即是】にもなるって、
三蔵法師様は般若心経で伝えてくださっています。
 ただ、高姫程度が、地球や人類を滅亡というか我がものにして終了させようとする真の力の元とは思えないのです。それらの裏に隠れるとてつもない邪悪なものの正体がさっぱりわからないのです。この宇宙の創造主様で根源的な存在とご一体であり裏側に位置する存在、それくらいの凄さを感じています(これは黙示録で示される部分だと思います。)。そして、現在でもその邪悪が存在して、しかし地球滅亡とか人類滅亡は止めて、そこから解き放たれるエネルギーを全て自分のものにしようと画策していて、それと抗争中なのが今なんだということだと思います。

2022年4月22日金曜日

霊界物語28巻 「跋(ばつ) 暗闇」

 https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm289901 さんより

(古語を 置き直した部分が一部あり。)


一、

現代の社会は力そのものが物を言ふ。

力なきものは立つべき道理も立たず。

立つべからざる無理も、力あるものには立派に立つ世の中だ。


二、

○○に対して或方面から行つた様な無茶を塵ほどでも行つたとすれば、忽ち悪魔呼ばはりを受け滅茶々々に打ち砕かれて了ふであらう。弱者は自ら犯さざる罪をも謝せねばならぬ。強者は自ら犯したる罪をも平気で押し通すと云ふ現状だ。強者は自ら悪をなしても、之を甘く世間を誤魔化して却て無上の善行とせらるる暗闇の世の中だ。


三、

誤解を解くには他の誤りを正すが第一の善法だ。自己の正しき主張を明白に徹底的に、相手方に合点の行く様に弁明し釈明する事に努力せなくては成らない。何程誤解されても構はぬ、正しき神は御照覧遊ばすからと、惟神主義を保持して袖手傍観的態度に出づる者は、自分の無能と無責任とを表白するもので、結局神の国の為には、卑怯者又は反抗者となるものである。


四、

相手方の言ひ放題に何でも彼んでも御無理御尤もと承服するは、決して誤解を釈くの方法に非ず。却て誤解を増大ならしむるものである。相手方の強者になると、此方の譲歩退嬰を以て謙譲の徳とせず、好意と認めず、却て驕慢の心を強め此方の行動を見て、

「吾輩の臆測した通りだ、さればこそ吾の抗議や言論や行為に対して、ただちに譲歩したのだ」

と言つて澄まし込んで了ふものである。


五、

いわゆる“ご無理ごもっとも”の譲歩的態度は、相手方の無理を是認する事となつて了ふ。換言すれば譲歩退嬰は誤解を釈く方法に非ずして却て相手方の誤解を裏書し、益々その誤解をして増長せしむるものとなるのである。之例ば或る商品に対し、即ち相手方の無暗に値切るに任せて、損をして迄大負に負る時は、相手方の買人は此方の好意に満足するよりも、却て吾が売主が本来の掛値を吹き掛けたけど、うまく値切つてやつた、然し未だ少し計り高値であったかも知れぬが なぞと誤解する様なものである。何処やそこい等の立派な方々の中にも、右様の態度を持する人が十中の十まである様に感じられてならぬ。これも依然難きを避け易きにつかむとする所謂惟神中毒の影像かも知れぬ。


六、

他の誤解を解く必要あるはさることながら、それに増して尤も大切なるは、他を自分から誤解せざることである。又今日の世界の状態に対しては、誤解せない様に努むるのが最も重大なことである。即ち兵家の所謂能く彼を知ることが肝腎である。孔子は人の己を知らざるをうれへず。人を知らざるをうれふと言つた通りである。


七、

人間の身体内には一方に天国あり、一方に地獄を包蔵して居るものだ。要するに人間は天使と悪魔との雑種児である。現代の人間に於て殊更にこの傾向多きを悟らねばならぬ。故に神示には之を中有人間、又は八衢人間とたとえられて居る。


八、

世界の状態を正しく解せよ。現代は悪魔横行の世なることを。国際連盟とか云つて、表面から見れば、天国の福音とも見るべき平和条約が結ばれた。併し人類平和の随喜者、世界泰平の夢想者の希望した程、期待した程、注文したる程に役に立つもので在らう乎。


九、

獅子や虎や、狼が疲労の結果、休息し眠を貪つて居るとても、決して猫や羊や兎には化るものでない。きっと 元気回復して眠より醒むる時が来るのは当然である。一時の暴風に逢つて意気悄沈し、手をこまねいて何もしないで、ただそばで見ている拱手傍観で自分の為すべきことを知らざる化け虎や、化け獅子や、化け狼がそこい等の山の麓に、永遠的に蟄伏して居るのを見ると、血湧き肉躍り、只一人焦慮し活躍せざるを得なくなって来る。


一〇、

一難来る毎にその信仰と勇気を強め、快活に愉快に立働く誠の神国魂の人は、果して幾人あるで在らう乎。


一一、

僅かに不断の活動を継続して居るものは、飛行将軍を先導に五字の教祖、及び日の出神の生宮と称する一派のかたがた位なものだ。しかしながら地方に至つては、それ相応の活動を行つて居る真人も少しはあるさうだ。之がせめてもの吾慰安となるばかりだ。


一二、

三五教、無抵抗主義の真諦を誤解して、如何なる暴逆にも、無理難題にも屈服し、おぼしめし次第だとか、御尤も千万だとか言つて、極端な無抵抗主義を標榜するのも一つは考えものだ。

 遂には卑劣と、柔弱と、節操のない人間の卵とならなければ幸だ。只世間の評判や、新聞の悪評や、其他の圧迫などを気遣つて、正義の大道を歩むことさへ恐るるに至らば、最早其の人間は駄目だ。製糞器か、立つて歩行く樹木か、拙劣なる蓄音機の様なものである。斯うなれば最早人格も何もあつたものでは無い。他人の尻馬に乗る許りが人間の勤むべき道では有るまい。


一三、

世間の評判や新聞の批評ほど当てにならぬものは無い。評判が良いからと思つて安心して居ると、忽ち背負投げを喰はされるものだ。一昨年以来悪鬼羅刹の権化の如く悪罵され、全国の新聞紙上に曝された東西二人の男女があつた。然しその男女に直接面会し、その思想や行為や態度を実見したものは、百人が百人まで世評や新聞記事の当にならないばかりか、全く正反対の人物たることをうなずくであらう。黒雲に包まれたる大空の月も、仇雲の扉をひらいて其瑞々しい姿を現はす時は、暗黒の地上も直に瑞光燦爛たる神姿を見る事が出来るであらう。(了)

(昭和一〇・六・八 王仁校正)