2018年6月22日金曜日

第20章 道 冒頭詩 273の考察

真理のことば 第20章 道 冒頭詩 273

 冒頭の詩
273)
もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれる。
もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)が最もすぐれている。
もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。
人々のうちで<眼ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。

から、詰まってしまっています。調べて、色々と考えてみました。この詩全体が、とても宗教の匂いがプンプンして、意味不明だったのです。
 八正道、四諦は、解説書を読めば、一回では分からなくとも、なんとか理解できるのですが、詩全体がちぐはぐなんです。その一つ一つを見ていきます。


もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれる。
 この詩中の八正道( 「悟りのよすが」、「八正道」、「五根」について参照)に関する詩句は、ずっと違和感があったのですが、何年も放置しました。
 今、じっくり考えてみると、仏道がその中で一番人類にとって有益だという事実を受け入れた上で、仏道=「八正道」or 「悟りのよすが」 or 「五根」か?という問いと答えが、この詩句の内容です。
 この違和感の原因は、この詩句の立ち位置が奇妙なのです。奇妙な点を以下に2つ記します。

 第1点は、「八正道」がお釈迦様の時代にはないのです。いわゆる、後付けの教えです。一方、「悟りのよすが」 、「五根」についても、お釈迦様の時代には存在した概念だと思うのですが、これらの概念をお釈迦様が持ち出したとは、非常に考えにくいのです。なぜかといえば、お釈迦様の説く精進の真髄は、怠らずに励む努め励む学び努めるなのです(第6章 賢い人前文参照)。

 第2点は、ヒンズー教やジャイナ教が競合している中で、お釈迦様にとっては、人の道についての教えの中で、人間にとって有益なものが一つもないと確信なされたので、あの活動をなさったのです。その目的は人類救済。
 自分が活動して説く教えの立ち位置を宣言する前に、いきなり八正道とか言うはずがありません。仏道=「八正道」or 「悟りのよすが」 or 「五根」か?を議論する前に、お釈迦様は、自分の教え(仏教というととてもお嫌のようですが、)の立ち位置を表さないのがおかしいと思うのです。

 ですから、この詩句は、お釈迦様が説く仏道が、どのようなものであるのかを宣言する詩句に書き換えます。
 
 ちなみに、私は「五根」は、知慧を得るまでが範囲として入りますので、神道の領域に入っていると思います。知慧を得て、活動する人たちは真人と考えられ、次の神道のステップに入っている人であると、この真理のことばでは定義しましたので、この定義に従うと、「五根」は、真人の領域に入っているとなります。
 しかし、これは厳密論で、あまり好ましくなく、どこまでが仏道でどこまでが神道でと一本線を綺麗に引こうというのが、人間の私には無理だと思われます。
 現在では、仏道の中心が八正道であると言われていますし、八正道については、お釈迦様が述べたことではないのですが、「悟りのよすが」や「五根」よりは、項目が8個になっているのでわかりやすいかもしれないと思います。したがって、仏道の中心ではないにしても骨格が八正道であると言われていることに、私は強い異議はありません。


もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)がもっともすぐれている。

 この詩句は、四諦(第25章 修行僧(修正版)の詩番号188のコメントを参照)という概念が、あまたある仏道の真理の頂点にあるということを宣言するための詩です。その他の真理は、真理のことば内でたくさん語られますが、それら全ては、この四諦という真理の枝葉だと捉えるのです。これは、実際にお釈迦様が考えて説かれたことだと思います。

もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。

 徳とは、まっすぐな心で行う行為だそうです。何か見返りを期待するための善行とかでは、一応、徳を積んだと言われても、大した徳ではないのでしょう。その見返りへの執着を離れる(捨てる)ことが最高の徳だということを表しました。情欲は執着と一般性のある言葉に置き換えました。


人々のうちで<眼ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。
 文章を整えました。
 

書き換え詩
273)
人の道の中では、仏道が最もすぐれている。
人の道の真理の中では、四諦(苦・集・滅・道)が最上である。
もろもろの徳の中では、執着から離れることが最もすぐれている。
人々の内では、ブッダ(=眼ある人)が最もすぐれている。


2018年6月19日火曜日

 今、日本でも結婚・家庭が乱れて、とても大変な事態だと思うのです。

 今、日本でも結婚・家庭が乱れて、とても大変な事態だと思うのです。
 気に入らなければ、すぐに離婚という話になり、当事者の感情ばかりが優先される由々しき事態です。
 まあ、そんな連中、さっさと別れて、どんどん落ちに落ちて復活できないくらいに劣化せよ!って気分もあるのです。少なくとも70代〜40代の、子はもう産まないとなった人たちに言うような話ではないです。若い人たちに伝えたいのです。なぜならば、乱れた結婚・家庭を立て直してもらいたいからです。その希望が若い世代なのです。

 家庭という、人類の最も小さい集団が元になって、合流し、社会、そして文明・文化が出来上がるのです。家庭とは、憩いの場、安らぎの場という側面もあるけれど、基本的には修行の場なのです。家族構成人の全員にとって修行の場ですから、当たり前のようにあぐらをかく人が出てきたら、少人数の団体なだけに、他のフォローする人が大変になるのです。しかし、子をもうけたら、家庭という修行の場の主な修行者は女性です。なぜなら、出産、子育ては女の仕事だからです。パパは無理ですよ。パパは、女性が良いのです。

 昨今の結婚・家庭の乱れは性の乱れが原因なのでしょう性の乱れは、意図的に起こされたと思います。とある僧侶が、この性的な貞節が崩れた学生闘争時代の当時の若者を簡単に性交渉すると厳しく批判していました。コンドームの残骸が大学に落ちていることが多かったとおっしゃっています。私は、その時代のことをよく知りませんが、きっとその頃に、日本の道徳観のギアが一段階悪い方向に進められたんだと思います。
 そのシナリオは、高校生だろうが大学生であろうが、付き合っている相手となら、愛があるから性交渉はありというような価値観を植え付ける方向で世の中の情報を氾濫させます。昔は、結婚相手以外とは性交渉はいけないと教えられてきたのです。「結婚相手愛し合って付き合っている相手というすり替えに、若い女性たちが、「愛があれば」の殺文句にまんまと騙されるのです。

 そして、発情して制御できない男性を放ち、何人もの女性を騙くらかすのです。騙された女性は、そんな相手に騙さた性交渉で、体も心も痛手を受けるのです。そのようにして壊れた女性が産出されます。これらが沢山いて、現在では、家庭が治まらず、離婚だ!、子ども虐待だ!という問題が起こるのです。性交渉までなければ、さほど痛手はないのです。それを、性教育で避妊具を使う」とか気持ち悪いことを授業で強制的に聞かされて、本当に若い人たちは気の毒ですが、これらは、前提として結婚を前提としてない性交渉を容認する教育だということを、現場の先生方が認識しなくてはなりません。一方、男性サイドにも、「性交渉は好きになった大切な女性を窮地に追い込む可能性がある行為だから、そうならないように、責任が持てるところでしかそういう行為はできないし、その場所が家庭ですよと教えてあげるのです。

 何度も言いますが、性交渉までなければ、さほど痛手はないのですから、“結婚相手だと確証が取れて初めて性交渉を考えるのが、本当は必要なことなんだよって教えてあげて欲しいのです。これを、中学、高校で声高に言えば、性教育のほとんどがOKです。


 年齢が行けば行くほど、誠意のない性交渉が、女性には心身ともに大打撃になると思いつまされます。若い頃は、なかなか分からないですよ。私は家が貧乏だったから、生活できるか否かが常に行動規範の中心にありましたから、結婚相手以外との性交渉なんて恐怖以外の何物でもなかったです。でも、「愛さえあれば」という言葉は、私にとっても非常に魅力的です。生活に不自由がなければ、この言葉に飲まれてしまうかもしれないです(しかし、私の場合はありがたいことに守護が強いので、この手の苦難は払いのけてもらっていた気がします。)。この辺りを考察すれば、十分、性教育だとも思うのです。高校くらいは、男女別学でこのようなことを考えたほうが、良いのかもしれないです。
(一応、終わり)

 こんなことを書くのは、実は、性欲について考えているのです。
 良いものなのか?悪いものなのか?
 悪いものではないのですが、それを、真理のことばの第20章 道 で考えないといけないのです。
 仏教は、性欲は断ち切れという教えが主流です。
 しかし、人間本来に備わっている性欲を、お釈迦様がNGです!と言うわけなく、
夫婦間の性欲(性交渉)
は禁止せず、
夫婦間以外の道ならぬ性欲(性交渉)
は禁止したのでしょう。
 また、結婚についても、考えていますが、在家にも出家にも結婚は認められていたのでしょう。
 ただし、特別な血筋、能力により、結婚ができない人がいたと考えられています。今の宗教概念では、それが出家者だと言われていますが、私は、出家か在家かではなく、特別な血筋、能力により、結婚を禁じられてきていると思うのです。
 まず、人類に大元から備わっている遺伝子が、ジャンク化されたという筋は正しいとして、話を進めます。より劣った遺伝子を持つ人もどきと地球の人間とを掛け合わせる(だまくらかして子をもうける)ことによって、人間の能力を低下させました。その悪の作戦に対抗するために、大元の遺伝子を持つ家というのを強い守護の下におきました。その家に生まれた人達は、本人がどう思っていようが、同族との結婚か、もしくは結婚しないかのどちらかが、先祖から与えられた道であって、おかしな結婚相手をもらってきて子どもをもうけた際には、その強力な守護が外されるという仕組みです(光は、悪い遺伝子は淘汰したいのです。)。そして、この場合、家を継ごうが、血統は、先祖の意向通りの結婚をした経脈に移ります。ですから、そんな大した家でなくても、血統は立派ということがあるのです。そして、結婚を選ばなかった人達も、遺伝子がジャンク化されていませんので、能力が高い人が多いのです。この場合、神様に仕えるお仕事をするとか、人の上に立ってリーダーシップを発揮するとか、そのような立場になり、人類に貢献するのです。だからと言って、決して出家者だとは限らないのです。

 この血統に関しては、とても大切です。以下に参考にした、日月神示梅の巻442帖を載せます。

 ・第15帖・・・442帖 http://heiwatori.com/page40さんより
この儘では世持ちて行かんと言う事解かって居ろうが
所々の氏神様、今迄の様な氏子の扱いでは立ちて行かんぞ
天の規則道りにやり方変えて下されよ
間に合わんことあるぞ
血尊べよ、血は霊であるぞ神であるぞ
血を濁してはならんぞ
血は混ぜこぜにしてはならんのじゃ
黄金こがねは黄金の血、白銀しろがねは白銀の血
黄金白銀混ぜ混ぜて別の血つくってはならんのじゃ
外国には混ぜこぜもあるなれど元を混ぜこぜならんのだぞ
混ぜることは乱すことだぞ
学はこの大事な血乱す様に仕組みているのだぞ
それが良く見える様にしたのは悪神だぞ
人民の目くらましているのじゃぞ
科学科学と人民申しているが人民の科学では何も出来ん
乱すばかりじゃ
神に尋ねて神の科学でないと何も成就せんぞ
解からなくなったら神に尋ねよと申してあること忘れるなよ
一に一足す二ばかりとは限らんのじゃ、解かったか
(終わり)