2018年5月11日金曜日

真理のことば 賢明な者達よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。

真理のことば 第19章 道を実践する人より抜粋 


詩271、272
 私は、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。賢明な者達よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。

 解脱は、在家的な生活を送っていても、到達できると、私は感じています。
 したがって、この詩は、<修行僧>と同時に、<道を実践する人>へ与えられた詩句と捉え、“修行僧よ”という言葉を、“賢明なものたちよ”と、広範囲な言葉で書きます。

 第7章 真人 97詩の生死の絆を断つのは、自分でなく自然と絶たれると書き記しましたが、解脱を得るのも同様だと思います。自力による“戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すこと”でも、自分の意思で解脱するものではなく、汚れが完全に消え失せれば、自然と解脱してしまうようです。
 では、汚れが完全に消えうせるとはどういうことかと言いますと、第7章 真人92,93詩のコメントで考察した通り、“空を体現”して、さらに“無相を体現”したら、解脱ができるということだと論じていますので、参照してください。

 <修行僧>、<バラモン>(<出家者>)とは、三次元世界では、職業的な意味合いでもありますが、営利活動にならないための行動のガイドラインとして戒律があるといった感じでしょう。そのような生活の中で、自己の霊性を磨くことが、彼らに与えられた道なのでしょう。
 一方、ある程度、在家的に生活をして、営利業に携わっている<道を実践する人>たちも、自己の霊性を磨くことが生きる目的です。その場合、その人たちの行動のガイドラインの戒律は、<出家者>らのそれとは異なるのは当然です。
 それぞれに与えられた道ですので、“出家者”>“道を実践する人”が必ずしも成立しません。
 さらに、全ての人が、霊性の向上を目的として生きているので、全ての人は修行者です。

 修行者については、お釈迦様がブッダのことば 第一 蛇(による編集)の章 5、チェンダで以下のように、述べられています。

84 師(ブッダ)は答えた、「チュンダよ。四種の修行者があり、第五の者はありません。面と向かって問われたのだから、それらをあなたに明かしましょう。──<道による勝者>と<道を説く者>と<道において生活する者>と及び<道を汚す者>とです。

 <道を汚す者>が、我々 修行者に紛れていることをきちんと注意喚起なさっています。他の3つについては、<道による勝者>=<ブッダ>、<道を説く者>=<バラモン>、<道において生活する者>=<修行僧>or<道を実践する人>ではないかと、私は考えています。ちなみに、私は、このチュンダの章では、ここで抜粋した文章以外は、信頼ができないと考えています。

 <道を汚す者>は出家側が話題になりやすいのです。キリスト教を悪魔崇拝に導いた指導者だったり、日本で有名なサリンを撒いたオウム真理教の教祖だったり、統一教会だったりと枚挙に遑がないがありません。
 オウム真理教や桜田淳子さんのおかげで、ここ20年ぐらいで、出家側の宗教関係者というだけで、世間は厳しい目を向けますので、そういう点では、出家側が悪事をしにくくなっていると思います。
 
 一方、在家側にも、同様に<道を汚す者>が転がり込んでいます。こちらは、出家側に比べて、母数が多いので、変身もしくは猫かぶりの術が非常にしやすく、とても見極めが厄介です。特に、政治家等の社会的影響力を有するところに多いのです。言うことは立派ですが、ちっとも組織や社会が進歩しないどころか、後退させてしまう輩です。すぐに、見分けられない時には、仕方ないので、結果を見て判断するしか、我々凡夫には手がないようです。

真理のことば  第25章 修行僧(元データと判定・解釈・考察と書き換え)より抜粋 詩370

真理のことば 
第25章 修行僧(元データと判定・解釈・考察と書き換え)より抜粋 詩370

***(書換え詩)*************
まず、五下分結を断ち、次に、五上分結を捨てよ。
さらに、信、精進、念、定、慧による五つ(のはたらき)を修めよ。
そうすれば、修行僧は、五つの執著-貪り、怒り、迷妄、高慢、誤った見解-を超え、<激流を渡った者>とよばれる。


***(元データ)*************
370)五つ(の束縛)を断て。五つ(の束縛)を捨てよ。さらに五つ(のはたらき)を修めよ。五つの執著を超えた修行僧は、<激流を渡った者>とよばれる。
***(判定)*************
370)B
***(コメント)*************
370)これは、お釈迦様がおっしゃったとは、到底、考えられません。しかし、後代になってできた教えだとしても、仏教に携わった霊能師全てがイカサマなわけではないのです。むしろ、良心的な霊能師が多かったと、私は確信しています。その人たちが、原始仏教の阿含経(真理のことばやブッダのことば)の教えから、大乗仏典へと仏教を発展させたのでしょう。そして、それを陣頭指揮なさったのも、お釈迦様ではないかと思っています。お釈迦様の肉体は滅びましたが、厳然と生きてらっしゃる気がしてなりません。
 壮大な話は止めておきましょう。私は、阿含経が大乗仏典より優れているとは考えていません。どちらかと言えば、進化系の大乗仏典の方が優れているとは思うのですが、量が莫大なので、はじめの一歩である阿含経の中の真理のことばを、大乗仏典の教えや日月神示の内容を踏まえて検証するのが、効率的ではないかと思うのです。今さら、原点に立ち返るのは悔しいのですが、、仏魔に憑かれた今の仏教の見直しをするには、これしか、方法がないと思っています。
 私の力では、“真理のことば”ですらやりきれるか、現在のところ非常に不安です。でも、たくさんの人が、頑張って活動しれらっしゃいますので、私もなんとか終わらせたいと思っています。


 次に、詩を具体的に読み進めるために、中村氏の注釈の書き下しと、http://way-to-buddha.blogspot.jp/2011/05/blog-post_1655.html さんよりの抜粋でご紹介いたします。このサイトはとてもよく書いてあると思いますので、ぜひ立ち寄ってご一読ください。書き下し部分や引用部分は青字で記します。

 まず、三界ですが、欲界、色界、無色界と呼ばれる3つの世界のことを指します(下図参照)。最下層が欲界、その上が欲界、さらにその上が無色界となっていますが、この三界に属している状態は、ニルバーナ(涅槃)=安らぎ、や 解脱状態ではありません。


“五つ(の束縛)を断て”の五つ(の束縛)は、五下分結と言い、魂を欲界に結びつける5つの煩悩です。5つの煩悩とは、以下のものです。

1.身見(しんけん:有身見)
私という不変の存在があるという見解のことである。
私(私の身体、私という心身の集合体)など、とにかく私というものが変わらず存在すると思うことである。
無知に分類される、誤った見解・邪見である。

2.疑惑(ぎわく:疑)
何が真実か分からない状態のことである。
仏道の真実が分らない無知な状態といえる。

3.戒取(かいしゅ:戒禁取見)
こだわりに、とらわれることである。
しきたりや苦行など、いろいろなことにとらわれ、こだわることである。

4.欲貪(よくとん)
激しい欲のことである。

5.瞋恚(しんに)
激しい怒りのことである。

②“五つ(の束縛)を捨てよ”の五つ(の束縛)は、五上分結と言い、魂を上界(色界と無色界)に結びつける5つの煩悩です。大切なことは、これらは五下分結と違い、捨てるものだということです。ということは、つい心に持ってしまうものだということです。

1.色貪(しきとん)
色界に対する執着のことで、色界の禅定のすばらしさに対する執着である。

2.無色貪(むしきとん)
無色界に対する執着のことで、無色界の禅定のすばらしさに対する執着である。

3.掉挙(じょうこ)
私は到達した、というような心のたかぶりの感覚である。掉挙とはあまり使わない言葉であるが、心のたかぶりを指している。
私はこの段階まで達したというような達成感のような、心のたかぶりの感覚である。
欲界でも掉挙はあるが、ここでは色界、無色界のかすかで微妙な心のたかぶりである。

4.我慢(がまん、慢)
私がなした、というような慢心の感覚である。ここでは、慢心のことを我慢と呼んでいる。
欲界でも慢はあるが、ここでは色界、無色界のかすかで微妙な慢心である。

5.無明(むみょう)
どうしても最後まで、僅かに残っている根本の無知のことである。


③“五つ(のはたらき)” 悟りを得させる5つの力(五根)のこと。信(正しいことを信じる)、精進(正しい精進をする)、念(正しい思いを持つ)、定(心を集中し乱さないこと)、慧(正しい知恵を持つ)。ここで使う正しいとは、法則から外れないということです。ですから、方便等の概念は含みません。正しいものは正しいという立ち位置に立つことです。7項目からなる悟りのよすが、八正道、五根の比較をhttps://newbuddhawords.blogspot.jp/2018/05/blog-post.htmlで行いましたので、ご覧ください。

④“五つの執著”は、貪り、怒り、迷妄、高慢、誤った見解です。

以上を元に、文章を整えます。


白洲次郎さんと軍国主義、軍の暴走、日本国憲法

白洲次郎さんと軍国主義、軍の暴走、日本国憲法


 私が子供の頃は、第二次世界大戦、太平洋戦争当初から軍部の暴走があって、天ちゃんの言うことを聞かなかったように、TVのドキュメンタリー番組が放送されていたような気がします。家がアカだったからかな、そんな番組をよく見ていただけかもしれません。
 学校の授業では、(子供が感じる程度の)報道ほどヒステリックさはなかったとは思いますが、なんせそんな部分は年度末にちょこっと教科書すら追わずにすっ飛ばす部分なので、あまりよく覚えていません。私は、大学入試にも、日本史を使いませんでしたから
、日本史のまっとうな勉強は中学が最後です。
 要するに、子供の時の「軍はおっかない」がそのまま心に残ってしまっています。

 白洲次郎さんの「プリンシパルのない日本」という本、主人が好きで買ってきたので読みました。だいぶ前ですが、その当時は、すごい人だったのかなと思ったのです。しかし、その後、色々な情報が入ってきて、私が白洲次郎さんを批判したことも覚えているのですが、私のあの批判は正しかったのかな?と今になって不安になってきました。そして、以下の二つのサイトに行き着きました。


 特に、①は、私の心情をそのまま記してらっしゃる感じです。

 私には、白洲さん自身は、自己陶酔が強い人というイメージがありました。まあ、容姿がとても優れてらっしゃり、お洒落ですから、そう感じるのかもしれません。
 それにしても、東北電力の初代会長だったというのが、どうしても、いいイメージがわかないのです。電力会社ですから。
 東京電力と、東北電力時代の白洲次郎さんがもめたのは有名な話です。東京電力は確かに嫌な会社ですよ。

 東京電力フクイチは原発事故(テロだったという噂もありますが、まあ、津波の付随事故だったのではないかという思いの方が強いです。)だった一方、東北電力の女川原発はどうして無事だったのかしら?ってずっと思っていました。白洲次郎さんが安全を重んじる人だったので、その彼の影響が社風に生きていると、このサイトでは書かれています。

 また、白洲次郎さんと憲法についてですが、彼は、敗戦から、憲法が公布される前後で、GHQとの交渉の最前線に立っていました(この立場が一番有名ですね。)。

 最近、憲法を自分なりに考えてみようと思って、読んでみたりしているのですが、どうしても嫌いになれないのです。以前、私は日本国憲法は光からの贈り物だという旨を書いたと思うのですが、それに異論はないのです。白洲次郎さんも私が抱いた感覚と同様に感じてらしたようで、

「白洲は、『押し付けられたのは事実だし、素人が作った憲法だが、内容は良い。人の良いアメリカ人が占領軍となって作ったから、ずいぶん助かったんだ』と話していました」特に9条を評価していたという。(②)
 
と、書いてありました。私の感覚がそんなに的外れでなかったと知って、とても嬉しかったです。
 日本国憲法がソ連政府や中国共産党に作られたらそりゃ一大事ですが、中国なんてほぼ敗戦国みたいなもので、ソ連は不可侵条約を破ったとんでもないヤクザ国家ですから、作る立場にはいなかったのでしょう。本当にラッキーでした。

「プリンシパルのない日本」を、私が読んだ時期は、今よりずっと平和でしたから、あまり、軍や自衛隊を合憲にする必要はなく、平和を尊重したいと思っていました。今のような危機感がなかったのです。でも、今現在は、戦争放棄、自衛隊はどうしても引っかかるのです。それについて、しっくりとした言葉が、
現在の厳しい国際情勢は、9条制定当初からは一変している。(②)
と書いてありました。

(これ、これ、ここが違うのよ!って拍手喝采です。)

 日本を背負った白洲さんや吉田茂さんが、光と闇の両方を持ち合わせてなかったはずはなく、
白洲が一筋なわでは理解できない人物であったことは、確かだ。(②)

という言葉に尽きると思うのです。

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先日、


 

というメッセージが届いた時に、日本政府も悪い連中(現天皇派)ばかりの牙城ではなく、いい人たちも活躍していた、そしていい人たちが悪評価されていたのだと、改めて気づきました。しかし、いい人たちは、悪い部分も持ちながら、日本を守ってきているのだなって、私はまだまだわからなかったんだなって未熟さ、浅はかさを痛感しました。

 白洲次郎さんは、軍の暴走が日本を守るために別の系統の陣頭指揮の下で行われたことや、あの戦争の本当の敵が誰だったのか、よく知ってらしたのではないかと思うようになりました。

 さらに、白洲さんは、日本国憲法を「国の根幹にかかわるものなのに、細かく書かれすぎている。もっとザックリ書けば良かった」とも述べているそうです(①)。

 これについては、憲法学者からたくさんの異論が出ていますが、私は、第九条をとって言えば、

第九条 
第一項 永久にこれを放棄する
第二項  全般(第二項は削除が好ましい?)

は細かすぎる記述だと思います。

 以下に第九条を載せます。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 そして、平和憲法の9条は、前述の別系統の陣頭指揮を将来的に封じ込めるために練りこまれた困った部分だとも思っていらしたのが、②でわかります。

「この憲法は占領軍によって強制せられたものである」「歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大なる罪悪である」

 後年そのごまかしが事実と信じられるような時がまさに今なのですが、その当時から、これを予言するのは、もはや神業だとしか言えないです。

 たかが、ファーイーストの小さな国に、こんな憲法まで作って押し付けて、武力封鎖させる必要があったのでしょうか?しかも、基本的に日本人は温厚です。何を恐れたのでしょうか?何を恐れて2発の原爆を落としたのでしょうか?白洲次郎さんはその答えを知ってらっしゃると思います。

 日本人の宝のような白洲次郎さんだったのかもしれないと思えてきました。誤解が解けて私にとってはとてもよかったです。

最後に、
 白洲次郎さんが、
一筋縄では理解できない人物であったこと、
そして日本を守ろうと懸命に生きた志士であった事は、
確かだ。

と書き記して、おしまいにします。