真理のことば 第19章 道を実践する人より抜粋
詩271、272
私は、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。賢明な者達よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。
解脱は、在家的な生活を送っていても、到達できると、私は感じています。
したがって、この詩は、<修行僧>と同時に、<道を実践する人>へ与えられた詩句と捉え、“修行僧よ”という言葉を、“賢明なものたちよ”と、広範囲な言葉で書きます。
第7章 真人 97詩の生死の絆を断つのは、自分でなく自然と絶たれると書き記しましたが、解脱を得るのも同様だと思います。自力による“戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すこと”でも、自分の意思で解脱するものではなく、汚れが完全に消え失せれば、自然と解脱してしまうようです。
では、汚れが完全に消えうせるとはどういうことかと言いますと、第7章 真人92,93詩のコメントで考察した通り、“空を体現”して、さらに“無相を体現”したら、解脱ができるということだと論じていますので、参照してください。
<修行僧>、<バラモン>(<出家者>)とは、三次元世界では、職業的な意味合いでもありますが、営利活動にならないための行動のガイドラインとして戒律があるといった感じでしょう。そのような生活の中で、自己の霊性を磨くことが、彼らに与えられた道なのでしょう。
一方、ある程度、在家的に生活をして、営利業に携わっている<道を実践する人>たちも、自己の霊性を磨くことが生きる目的です。その場合、その人たちの行動のガイドラインの戒律は、<出家者>らのそれとは異なるのは当然です。
それぞれに与えられた道ですので、“出家者”>“道を実践する人”が必ずしも成立しません。
さらに、全ての人が、霊性の向上を目的として生きているので、全ての人は修行者です。
修行者については、お釈迦様がブッダのことば 第一 蛇(による編集)の章 5、チェンダで以下のように、述べられています。
84 師(ブッダ)は答えた、「チュンダよ。四種の修行者があり、第五の者はありません。面と向かって問われたのだから、それらをあなたに明かしましょう。──<道による勝者>と<道を説く者>と<道において生活する者>と及び<道を汚す者>とです。」
<道を汚す者>が、我々 修行者に紛れていることをきちんと注意喚起なさっています。他の3つについては、<道による勝者>=<ブッダ>、<道を説く者>=<バラモン>、<道において生活する者>=<修行僧>or<道を実践する人>ではないかと、私は考えています。ちなみに、私は、このチュンダの章では、ここで抜粋した文章以外は、信頼ができないと考えています。
<道を汚す者>は出家側が話題になりやすいのです。キリスト教を悪魔崇拝に導いた指導者だったり、日本で有名なサリンを撒いたオウム真理教の教祖だったり、統一教会だったりと枚挙に遑がないがありません。
オウム真理教や桜田淳子さんのおかげで、ここ20年ぐらいで、出家側の宗教関係者というだけで、世間は厳しい目を向けますので、そういう点では、出家側が悪事をしにくくなっていると思います。
一方、在家側にも、同様に<道を汚す者>が転がり込んでいます。こちらは、出家側に比べて、母数が多いので、変身もしくは猫かぶりの術が非常にしやすく、とても見極めが厄介です。特に、政治家等の社会的影響力を有するところに多いのです。言うことは立派ですが、ちっとも組織や社会が進歩しないどころか、後退させてしまう輩です。すぐに、見分けられない時には、仕方ないので、結果を見て判断するしか、我々凡夫には手がないようです。