書き増し記事を “第24章 愛執(1)(元データと判定・解釈・考察と書き換え)”URL(https://newbuddhawords.blogspot.com/2018/10/blog-post_12.html)に載せます。
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愛執(あいしゅう)やこの章内で使われる愛欲というのは、仏教用語です。
中村氏の真理のことばでは、愛執と愛欲は同じ意味で使われている場合もあり、そうでない場合もあり、全体としてはっきりしません。
中村氏は、愛執と愛欲について、ご自身の定義をなさってないので、ここでは、まず愛欲という言葉を考察して、定義して、詩を整理しないとラチがあきません。愛執についても同様です。
両者の意味を調べて再定義すると、
(1)愛欲とは、異性の愛情を求める欲
(2)愛執とは、様々な対象に対しての執着を愛する心
として問題がないようです。
つまり、愛欲については、欲の一つと考えます。この考えのもと、詩335(*1)を読みくだしてみましょう。
“此の世において執著(しゅうじゃく;執着で良いでしょう。)のもとであるこのうずく愛欲のなすがまま”と書いてあるのですが、愛欲とは執着(執心)を引き起こす元であるということです。しかし、今回定義した愛欲では、意味としては限定されすぎています。ですから、欲の総称として欲望と置き換えるのが適切です。
複雑ですが、大切な部分ですので、もう少し、考えていきましょう。
仏教では、五欲(ごよく)として、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲があります。他にもあるのでしょう。これらの欲は、この三次元の世界で、設定されているもので、執着を起こす側の人間には無くすことはできないのです。そして、これら全てをひっくるめて、欲と言っていると考えるのです。話が前後しますが、私は、五欲に愛欲を加えたほうが良いと思います。性欲だけだと足りないと感じるのです。特定の異性の愛を求めるのが愛欲、ひたすら性的な行為に惹かれる対象不特定の欲を性欲とします。だいぶ、すっきりしたと思います。
他方、お釈迦様は、この世の中には激流が存在して、その激流と一緒に流れている無常のものに恋い焦がれて、精一杯追いかけるのが人間の心であるとしています。この激流に引っ張られる要因が、愛執、執着、執心なのです。また、実際には、愛執、執着、執心によって激流に一緒に流されているだけなのですが、その求めているものは、激流の中なので、なかなか掴めません。しかし、自分では激流の中で一生懸命追い求めている気になっているのです。激流とは、先ほど述べたすでに設定されている欲の数々で、すでに設定されているのです。しかし、どの欲の流れに流されるかは、その心の執着する癖によります(詩339)(*2)。食欲に弱い人もいれば、名誉欲に弱い人もいるっていうのが、現実ですから、この辺りはわかりやすいと思います。
そして、さらに踏み込んで言ってしまえば、人間が恋い焦がれて追い求める“激流と一緒に流れている無常のもの”は、空であると認識することが、般若心経の教えです。
以上の考察から、第24章は、タイトルを “愛執”から“執着と欲望”と変更し、愛執は、日本人にとって親しみのある執着を使います。
最後に、自分が、この世の中で何かを一生懸命追いかけて苦しくなった時、実は自分は無駄なものを追いかけているのではないか?という疑問が起こる時が誰にだって何回かは経験があるはずです。そこが、択法の機会なのです。正しい教えを探し求めて、今までの自分の生活が正しい教えに沿っていたのかを考えなくてはならない時期なのです。そして、幸運にもそれを見つけたら、疑わずに、その教えに沿って努め励み、激流の中を自己の人生が正しい真理に従って進めるように、守護神の力を借りて、心と魂は一体となって、全力で舵を取らなければいけないのです。そして、順調に流れを進み続けていたとしても、ちょっとした考え違いで、また激流に流されてしまうと、お釈迦様は人間たちに教えてらっしゃいます。 (合掌)
(*1)この世において執著のもとであるこのうずく愛欲のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する。──雨が降ったあとにはビーラナ草がはびこるように。
(*2) 快いものに向って流れる三十六の激流があれば、その波浪は、悪しき見解をいだく人を漂わし去る。──その波浪とは貪欲にねざした想いである。