2018年7月10日火曜日

靖国神社お参り

 昨日は、靖国神社にお参りいたしました。

 雨が突然降ったりと、変なお天気でしたが、一度だけ雨宿りしただけでした。
 2年ほど前でしょうか、靖国神社のことが心に浮かんできたことがあるのです。そこでは、戦没者の方々が、嬉しそうにお祭りをしているのです。とても楽しそうにしてらっしゃいました。なんでも、とても怖い奴が近くにいたそうですが、そいつを退散させたから、楽しくお祭りができているのだそうです。
 怖い悪魔が巣食う神社(梅原猛氏の本で読みました。永久戦犯の東条英機の悪魔に祈りを捧げ、戦争しますと誓う場所といった表現でした。)というイメージが強く、アカの私は近づいたことがなかったのですが、それを覆す、平和的なお祭りのイメージが次から次へと浮かんできて驚きました。こんなイメージを受け取った後、「戦没者の御霊を守っている場所が靖国神社なんだな」と思いました。そして、今では、「家族がいなくても靖国神社という帰還場所があるために日本に帰ってこられるんだな。未だ、硫黄島、サイパンから靖国神社に帰還できていない魂もあって心配だな。」と思うようになりました。靖国神社の主祭神は 護国の英霊ですが、この御霊を守る神様がいらっしゃることを昨日は確信しました。


 昨日、鳥居をくぐる時に、帽子を脱いでと思いつつ歩いていましたが、雨もパラパラ降っていて躊躇していました。でも、英霊の方々(神様)に失礼があってはいけないと思い、鳥居の前で帽子を取ったら、その瞬間に雨がほぼやみました。でも、予感的中だったんです。私、訳のわからない雨に当たりたくなくて、躊躇しながら鳥居に近づいたのですが、くぐった瞬間に雨はやむような気がしてならなかったのです。
 参拝は、二礼二拍手一礼でお辞儀は90度にして、英霊の方々に敬意と感謝を伝えました。そして、神社を後にしました。

 昔のことですが、私はあの近辺の予備校に高校卒業して1年通いました。私は、予備校に行くのに、水道橋駅を使っていたのですが、予備校のほとんどの人は、神保町か水道橋を使っていました。
 私、英語が苦手だったのですが、予備校のある英語の先生は、高校の英語の先生と同じようで同じでない授業をしてくださって、結構、たくさん、注意を受けました(ザル頭と呼ばれた事件とか。)。お笑いのテンポで授業をするので、あのペースに慣れるまでが、本当に大変でした。この先生、以前も登場したのですが、授業以外で質問しに行ったことも1、2回くらいの関係だったと思うのですが、どうしてか忘れられないのです。ただ、英語の苦手な人を相手にあそこまで面倒を見るのだから(当時の浪人生は英語が苦手な人が多かったですよ)、すごいな!って思っていたのです。梅原猛先生の「隠された十字架」も、この先生が教えてくださったのです。時間ができたら読みたいなって、思いつつ、読んだのは28歳になっていました(本が見つからなかったのです。)

 ある日、お友達と、予備校で昼食をとっている時に、先生方の使用している駅の話になったのですが、やはり神保町が多くて、水道橋がチョロチョロでした。でも、その英語の先生は九段下を使っているということでした。

 私は、理系クラスでしたから、お友達を含めて、数学の先生たちとはとても仲良くしていただきました。数学の先生にも本当にご恩があるのですが、お名前を忘れてしまいました。
 一方、この英語の先生ご自身がフレンドリーではないのですが、お名前全てはっきり覚えています。でも、個人情報だから書けないのですが、英語で言えば、Continent Looking Light Manです。

 話が前後しますが、昨日は靖国神社へのアクセスを、私は以前から調べていた、半蔵門駅からで予定していました。でも、地下鉄で携帯を使って検索しても九段下アクセスしか出てこなくて、これは「九段下を使いなさい。」ということかなぁって思い、九段下から靖国神社にアクセスしました(これは、神社の表からのアクセスだから、常識的です。)。

 お参りの帰りに九段下あたりをブラブラしたら、確かに九段下も予備校まで遠くないなって思いました。そして、英語の先生は靖国神社の最寄駅を使ってらっしゃったんだと思った瞬間にハッとしました。
 
 どうして、この英語の先生の、お名前、お姿、話を忘れないのか、不思議だったのです。それは、私が英語が苦手で叱られたからかななど考えていましたが、全ては本質ではなかった。もう何十年前でしょうか?たまに思いだしてはいましたが、ようやく答えが出ました。本当に、皆に対してえこひいきのない、愛情あふれる先生で、大切なイディオムと文法を長文読解につながるようにテンポよく教えてくださる先生でした。先生、靖国神社の神様の息のかかった人だったんだなと。

 私が、昨日、九段下駅を使わなくてはならなかった理由もよくわかりました。もう、私はだいぶおばさんですが、きっと覚えてらして、社中や街中を歩いている姿を見ていてくださったのでしょう。私、訪れるのは遅くなってしまいましたが、忘れてなかったですって伝わたら嬉しいです。

2018年6月22日金曜日

第20章 道 冒頭詩 273の考察

真理のことば 第20章 道 冒頭詩 273

 冒頭の詩
273)
もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれる。
もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)が最もすぐれている。
もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。
人々のうちで<眼ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。

から、詰まってしまっています。調べて、色々と考えてみました。この詩全体が、とても宗教の匂いがプンプンして、意味不明だったのです。
 八正道、四諦は、解説書を読めば、一回では分からなくとも、なんとか理解できるのですが、詩全体がちぐはぐなんです。その一つ一つを見ていきます。


“もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれる。”
 この詩中の八正道( 「悟りのよすが」、「八正道」、「五根」について参照)に関する詩句は、ずっと違和感があったのですが、何年も放置しました。
 今、じっくり考えてみると、仏道がその中で一番人類にとって有益だという事実を受け入れた上で、仏道=「八正道」or 「悟りのよすが」 or 「五根」か?という問いと答えが、この詩句の内容です。
 この違和感の原因は、この詩句の立ち位置が奇妙なのです。奇妙な点を以下に2つ記します。

 第1点は、「八正道」がお釈迦様の時代にはないのです。いわゆる、後付けの教えです。一方、「悟りのよすが」 、「五根」についても、お釈迦様の時代には存在した概念だと思うのですが、これらの概念をお釈迦様が持ち出したとは、非常に考えにくいのです。なぜかといえば、お釈迦様の説く精進の真髄は、“怠らずに励む”→“努め励む”→“学び努める”なのです(第6章 賢い人前文参照)。

 第2点は、ヒンズー教やジャイナ教が競合している中で、お釈迦様にとっては、人の道についての教えの中で、人間にとって有益なものが一つもないと確信なされたので、あの活動をなさったのです。その目的は人類救済。
 自分が活動して説く教えの立ち位置を宣言する前に、いきなり八正道とか言うはずがありません。仏道=「八正道」or 「悟りのよすが」 or 「五根」か?を議論する前に、お釈迦様は、自分の教え(仏教というととてもお嫌のようですが、)の立ち位置を表さないのがおかしいと思うのです。

 ですから、この詩句は、お釈迦様が説く仏道が、どのようなものであるのかを宣言する詩句に書き換えます。
 
 ちなみに、私は「五根」は、知慧を得るまでが範囲として入りますので、神道の領域に入っていると思います。知慧を得て、活動する人たちは真人と考えられ、次の神道のステップに入っている人であると、この“真理のことば” では定義しましたので、この定義に従うと、「五根」は、真人の領域に入っているとなります。
 しかし、これは厳密論で、あまり好ましくなく、どこまでが仏道でどこまでが神道でと一本線を綺麗に引こうというのが、人間の私には無理だと思われます。
 現在では、仏道の中心が八正道であると言われていますし、八正道については、お釈迦様が述べたことではないのですが、「悟りのよすが」や「五根」よりは、項目が8個になっているのでわかりやすいかもしれないと思います。したがって、仏道の中心ではないにしても骨格が八正道であると言われていることに、私は強い異議はありません。


“もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)がもっともすぐれている。”

 この詩句は、四諦(第25章 修行僧(修正版)の詩番号188のコメントを参照)という概念が、あまたある仏道の真理の頂点にあるということを宣言するための詩です。その他の真理は、“真理のことば”内でたくさん語られますが、それら全ては、この四諦という真理の枝葉だと捉えるのです。これは、実際にお釈迦様が考えて説かれたことだと思います。

“もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。”

 徳とは、まっすぐな心で行う行為だそうです。何か見返りを期待するための善行とかでは、一応、徳を積んだと言われても、大した徳ではないのでしょう。その見返りへの執着を離れる(捨てる)ことが最高の徳だということを表しました。情欲は執着と一般性のある言葉に置き換えました。


“人々のうちで<眼ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。”
 文章を整えました。
 

書き換え詩
273)
人の道の中では、仏道が最もすぐれている。
人の道の真理の中では、四諦(苦・集・滅・道)が最上である。
もろもろの徳の中では、執着から離れることが最もすぐれている。
人々の内では、ブッダ(=眼ある人)が最もすぐれている。


2018年6月19日火曜日

 今、日本でも結婚・家庭が乱れて、とても大変な事態だと思うのです。

 今、日本でも結婚・家庭が乱れて、とても大変な事態だと思うのです。
 気に入らなければ、すぐに離婚という話になり、当事者の感情ばかりが優先される由々しき事態です。
 まあ、そんな連中、さっさと別れて、どんどん落ちに落ちて復活できないくらいに劣化せよ!って気分もあるのです。少なくとも70代〜40代の、子はもう産まないとなった人たちに言うような話ではないです。若い人たちに伝えたいのです。なぜならば、乱れた結婚・家庭を立て直してもらいたいからです。その希望が若い世代なのです。

 家庭という、人類の最も小さい集団が元になって、合流し、社会、そして文明・文化が出来上がるのです。家庭とは、憩いの場、安らぎの場という側面もあるけれど、基本的には修行の場なのです。家族構成人の全員にとって修行の場ですから、当たり前のようにあぐらをかく人が出てきたら、少人数の団体なだけに、他のフォローする人が大変になるのです。しかし、子をもうけたら、家庭という修行の場の主な修行者は女性です。なぜなら、出産、子育ては女の仕事だからです。パパは無理ですよ。パパは、女性が良いのです。

 昨今の結婚・家庭の乱れは性の乱れが原因なのでしょう。性の乱れは、意図的に起こされたと思います。とある僧侶が、この性的な貞節が崩れた学生闘争時代の当時の若者を簡単に性交渉すると厳しく批判していました。コンドームの残骸が大学に落ちていることが多かったとおっしゃっています。私は、その時代のことをよく知りませんが、きっとその頃に、日本の道徳観のギアが一段階悪い方向に進められたんだと思います。
 そのシナリオは、高校生だろうが大学生であろうが、付き合っている相手となら、愛があるから性交渉はありというような価値観を植え付ける方向で世の中の情報を氾濫させます。昔は、結婚相手以外とは性交渉はいけないと教えられてきたのです。「結婚相手」と「愛し合って付き合っている相手」というすり替えに、若い女性たちが、「愛があれば」の殺文句にまんまと騙されるのです。

 そして、発情して制御できない男性を放ち、何人もの女性を騙くらかすのです。騙された女性は、そんな相手に騙さた性交渉で、体も心も痛手を受けるのです。そのようにして壊れた女性が産出されます。これらが沢山いて、現在では、家庭が治まらず、離婚だ!、子ども虐待だ!という問題が起こるのです。性交渉までなければ、さほど痛手はないのです。それを、性教育で「避妊具を使う」とか気持ち悪いことを授業で強制的に聞かされて、本当に若い人たちは気の毒ですが、これらは、前提として結婚を前提としてない性交渉を容認する教育だということを、現場の先生方が認識しなくてはなりません。一方、男性サイドにも、「性交渉は好きになった大切な女性を窮地に追い込む可能性がある行為だから、そうならないように、責任が持てるところでしかそういう行為はできないし、その場所が家庭ですよ」と教えてあげるのです。

 何度も言いますが、性交渉までなければ、さほど痛手はないのですから、“結婚相手だと確証が取れて初めて性交渉を考えるのが、本当は必要なことなんだよ”って教えてあげて欲しいのです。これを、中学、高校で声高に言えば、性教育のほとんどがOKです。


 年齢が行けば行くほど、誠意のない性交渉が、女性には心身ともに大打撃になると思いつまされます。若い頃は、なかなか分からないですよ。私は家が貧乏だったから、生活できるか否かが常に行動規範の中心にありましたから、結婚相手以外との性交渉なんて恐怖以外の何物でもなかったです。でも、「愛さえあれば」という言葉は、私にとっても非常に魅力的です。生活に不自由がなければ、この言葉に飲まれてしまうかもしれないです(しかし、私の場合はありがたいことに守護が強いので、この手の苦難は払いのけてもらっていた気がします。)。この辺りを考察すれば、十分、性教育だとも思うのです。高校くらいは、男女別学でこのようなことを考えたほうが、良いのかもしれないです。
(一応、終わり)

 こんなことを書くのは、実は、性欲について考えているのです。
 良いものなのか?悪いものなのか?
 悪いものではないのですが、それを、真理のことばの第20章 道 で考えないといけないのです。
 仏教は、性欲は断ち切れという教えが主流です。
 しかし、人間本来に備わっている性欲を、お釈迦様がNGです!と言うわけなく、
夫婦間の性欲(性交渉)
は禁止せず、
夫婦間以外の道ならぬ性欲(性交渉)
は禁止したのでしょう。
 また、結婚についても、考えていますが、在家にも出家にも結婚は認められていたのでしょう。
 ただし、特別な血筋、能力により、結婚ができない人がいたと考えられています。今の宗教概念では、それが出家者だと言われていますが、私は、出家か在家かではなく、特別な血筋、能力により、結婚を禁じられてきていると思うのです。
 まず、人類に大元から備わっている遺伝子が、ジャンク化されたという筋は正しいとして、話を進めます。より劣った遺伝子を持つ人もどきと地球の人間とを掛け合わせる(だまくらかして子をもうける)ことによって、人間の能力を低下させました。その悪の作戦に対抗するために、大元の遺伝子を持つ家というのを強い守護の下におきました。その家に生まれた人達は、本人がどう思っていようが、同族との結婚か、もしくは結婚しないかのどちらかが、先祖から与えられた道であって、おかしな結婚相手をもらってきて子どもをもうけた際には、その強力な守護が外されるという仕組みです(光は、悪い遺伝子は淘汰したいのです。)。そして、この場合、家を継ごうが、血統は、先祖の意向通りの結婚をした経脈に移ります。ですから、そんな大した家でなくても、血統は立派ということがあるのです。そして、結婚を選ばなかった人達も、遺伝子がジャンク化されていませんので、能力が高い人が多いのです。この場合、神様に仕えるお仕事をするとか、人の上に立ってリーダーシップを発揮するとか、そのような立場になり、人類に貢献するのです。だからと言って、決して出家者だとは限らないのです。

 この血統に関しては、とても大切です。以下に参考にした、日月神示梅の巻442帖を載せます。

 ・第15帖・・・442帖 http://heiwatori.com/page40さんより
この儘では世持ちて行かんと言う事解かって居ろうが
所々の氏神様、今迄の様な氏子の扱いでは立ちて行かんぞ
天の規則道りにやり方変えて下されよ
間に合わんことあるぞ
血尊べよ、血は霊であるぞ神であるぞ
血を濁してはならんぞ
血は混ぜこぜにしてはならんのじゃ
黄金こがねは黄金の血、白銀しろがねは白銀の血
黄金白銀混ぜ混ぜて別の血つくってはならんのじゃ
外国には混ぜこぜもあるなれど元を混ぜこぜならんのだぞ
混ぜることは乱すことだぞ
学はこの大事な血乱す様に仕組みているのだぞ
それが良く見える様にしたのは悪神だぞ
人民の目くらましているのじゃぞ
科学科学と人民申しているが人民の科学では何も出来ん
乱すばかりじゃ
神に尋ねて神の科学でないと何も成就せんぞ
解からなくなったら神に尋ねよと申してあること忘れるなよ
一に一足す二ばかりとは限らんのじゃ、解かったか
(終わり)

2018年5月11日金曜日

真理のことば 賢明な者達よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。

真理のことば 第19章 道を実践する人より抜粋 


詩271、272
 私は、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。賢明な者達よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。

 解脱は、在家的な生活を送っていても、到達できると、私は感じています。
 したがって、この詩は、<修行僧>と同時に、<道を実践する人>へ与えられた詩句と捉え、“修行僧よ”という言葉を、“賢明なものたちよ”と、広範囲な言葉で書きます。

 第7章 真人 97詩の生死の絆を断つのは、自分でなく自然と絶たれると書き記しましたが、解脱を得るのも同様だと思います。自力による“戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すこと”でも、自分の意思で解脱するものではなく、汚れが完全に消え失せれば、自然と解脱してしまうようです。
 では、汚れが完全に消えうせるとはどういうことかと言いますと、第7章 真人92,93詩のコメントで考察した通り、“空を体現”して、さらに“無相を体現”したら、解脱ができるということだと論じていますので、参照してください。

 <修行僧>、<バラモン>(<出家者>)とは、三次元世界では、職業的な意味合いでもありますが、営利活動にならないための行動のガイドラインとして戒律があるといった感じでしょう。そのような生活の中で、自己の霊性を磨くことが、彼らに与えられた道なのでしょう。
 一方、ある程度、在家的に生活をして、営利業に携わっている<道を実践する人>たちも、自己の霊性を磨くことが生きる目的です。その場合、その人たちの行動のガイドラインの戒律は、<出家者>らのそれとは異なるのは当然です。
 それぞれに与えられた道ですので、“出家者”>“道を実践する人”が必ずしも成立しません。
 さらに、全ての人が、霊性の向上を目的として生きているので、全ての人は修行者です。

 修行者については、お釈迦様がブッダのことば 第一 蛇(による編集)の章 5、チェンダで以下のように、述べられています。

84 師(ブッダ)は答えた、「チュンダよ。四種の修行者があり、第五の者はありません。面と向かって問われたのだから、それらをあなたに明かしましょう。──<道による勝者>と<道を説く者>と<道において生活する者>と及び<道を汚す者>とです。」

 <道を汚す者>が、我々 修行者に紛れていることをきちんと注意喚起なさっています。他の3つについては、<道による勝者>=<ブッダ>、<道を説く者>=<バラモン>、<道において生活する者>=<修行僧>or<道を実践する人>ではないかと、私は考えています。ちなみに、私は、このチュンダの章では、ここで抜粋した文章以外は、信頼ができないと考えています。

 <道を汚す者>は出家側が話題になりやすいのです。キリスト教を悪魔崇拝に導いた指導者だったり、日本で有名なサリンを撒いたオウム真理教の教祖だったり、統一教会だったりと枚挙に遑がないがありません。
 オウム真理教や桜田淳子さんのおかげで、ここ20年ぐらいで、出家側の宗教関係者というだけで、世間は厳しい目を向けますので、そういう点では、出家側が悪事をしにくくなっていると思います。
 
 一方、在家側にも、同様に<道を汚す者>が転がり込んでいます。こちらは、出家側に比べて、母数が多いので、変身もしくは猫かぶりの術が非常にしやすく、とても見極めが厄介です。特に、政治家等の社会的影響力を有するところに多いのです。言うことは立派ですが、ちっとも組織や社会が進歩しないどころか、後退させてしまう輩です。すぐに、見分けられない時には、仕方ないので、結果を見て判断するしか、我々凡夫には手がないようです。

真理のことば  第25章 修行僧(元データと判定・解釈・考察と書き換え)より抜粋 詩370

真理のことば 
第25章 修行僧(元データと判定・解釈・考察と書き換え)より抜粋 詩370

***(書換え詩)*************
まず、五下分結を断ち、次に、五上分結を捨てよ。
さらに、信、精進、念、定、慧による五つ(のはたらき)を修めよ。
そうすれば、修行僧は、五つの執著-貪り、怒り、迷妄、高慢、誤った見解-を超え、<激流を渡った者>とよばれる。


***(元データ)*************
370)五つ(の束縛)を断て。五つ(の束縛)を捨てよ。さらに五つ(のはたらき)を修めよ。五つの執著を超えた修行僧は、<激流を渡った者>とよばれる。
***(判定)*************
370)B
***(コメント)*************
370)これは、お釈迦様がおっしゃったとは、到底、考えられません。しかし、後代になってできた教えだとしても、仏教に携わった霊能師全てがイカサマなわけではないのです。むしろ、良心的な霊能師が多かったと、私は確信しています。その人たちが、原始仏教の阿含経(真理のことばやブッダのことば)の教えから、大乗仏典へと仏教を発展させたのでしょう。そして、それを陣頭指揮なさったのも、お釈迦様ではないかと思っています。お釈迦様の肉体は滅びましたが、厳然と生きてらっしゃる気がしてなりません。
 壮大な話は止めておきましょう。私は、阿含経が大乗仏典より優れているとは考えていません。どちらかと言えば、進化系の大乗仏典の方が優れているとは思うのですが、量が莫大なので、はじめの一歩である阿含経の中の真理のことばを、大乗仏典の教えや日月神示の内容を踏まえて検証するのが、効率的ではないかと思うのです。今さら、原点に立ち返るのは悔しいのですが、、仏魔に憑かれた今の仏教の見直しをするには、これしか、方法がないと思っています。
 私の力では、“真理のことば”ですらやりきれるか、現在のところ非常に不安です。でも、たくさんの人が、頑張って活動しれらっしゃいますので、私もなんとか終わらせたいと思っています。


 次に、詩を具体的に読み進めるために、中村氏の注釈の書き下しと、http://way-to-buddha.blogspot.jp/2011/05/blog-post_1655.html さんよりの抜粋でご紹介いたします。このサイトはとてもよく書いてあると思いますので、ぜひ立ち寄ってご一読ください。書き下し部分や引用部分は青字で記します。

 まず、三界ですが、欲界、色界、無色界と呼ばれる3つの世界のことを指します(下図参照)。最下層が欲界、その上が欲界、さらにその上が無色界となっていますが、この三界に属している状態は、ニルバーナ(涅槃)=安らぎ、や 解脱状態ではありません。


①“五つ(の束縛)を断て”の五つ(の束縛)は、五下分結と言い、魂を欲界に結びつける5つの煩悩です。5つの煩悩とは、以下のものです。

1.身見(しんけん:有身見)
私という不変の存在があるという見解のことである。
私(私の身体、私という心身の集合体)など、とにかく私というものが変わらず存在すると思うことである。
無知に分類される、誤った見解・邪見である。

2.疑惑(ぎわく:疑)
何が真実か分からない状態のことである。
仏道の真実が分らない無知な状態といえる。

3.戒取(かいしゅ:戒禁取見)
こだわりに、とらわれることである。
しきたりや苦行など、いろいろなことにとらわれ、こだわることである。

4.欲貪(よくとん)
激しい欲のことである。

5.瞋恚(しんに)
激しい怒りのことである。

②“五つ(の束縛)を捨てよ”の五つ(の束縛)は、五上分結と言い、魂を上界(色界と無色界)に結びつける5つの煩悩です。大切なことは、これらは五下分結と違い、捨てるものだということです。ということは、つい心に持ってしまうものだということです。

1.色貪(しきとん)
色界に対する執着のことで、色界の禅定のすばらしさに対する執着である。

2.無色貪(むしきとん)
無色界に対する執着のことで、無色界の禅定のすばらしさに対する執着である。

3.掉挙(じょうこ)
私は到達した、というような心のたかぶりの感覚である。掉挙とはあまり使わない言葉であるが、心のたかぶりを指している。
私はこの段階まで達したというような達成感のような、心のたかぶりの感覚である。
欲界でも掉挙はあるが、ここでは色界、無色界のかすかで微妙な心のたかぶりである。

4.我慢(がまん、慢)
私がなした、というような慢心の感覚である。ここでは、慢心のことを我慢と呼んでいる。
欲界でも慢はあるが、ここでは色界、無色界のかすかで微妙な慢心である。

5.無明(むみょう)
どうしても最後まで、僅かに残っている根本の無知のことである。


③“五つ(のはたらき)” 悟りを得させる5つの力(五根)のこと。信(正しいことを信じる)、精進(正しい精進をする)、念(正しい思いを持つ)、定(心を集中し乱さないこと)、慧(正しい知恵を持つ)。ここで使う正しいとは、法則から外れないということです。ですから、方便等の概念は含みません。正しいものは正しいという立ち位置に立つことです。7項目からなる悟りのよすが、八正道、五根の比較をhttps://newbuddhawords.blogspot.jp/2018/05/blog-post.htmlで行いましたので、ご覧ください。

④“五つの執著”は、貪り、怒り、迷妄、高慢、誤った見解です。

以上を元に、文章を整えます。


白洲次郎さんと軍国主義、軍の暴走、日本国憲法

白洲次郎さんと軍国主義、軍の暴走、日本国憲法


 私が子供の頃は、第二次世界大戦、太平洋戦争当初から軍部の暴走があって、天ちゃんの言うことを聞かなかったように、TVのドキュメンタリー番組が放送されていたような気がします。家がアカだったからかな、そんな番組をよく見ていただけかもしれません。
 学校の授業では、(子供が感じる程度の)報道ほどヒステリックさはなかったとは思いますが、なんせそんな部分は年度末にちょこっと教科書すら追わずにすっ飛ばす部分なので、あまりよく覚えていません。私は、大学入試にも、日本史を使いませんでしたから
、日本史のまっとうな勉強は中学が最後です。
 要するに、子供の時の「軍はおっかない」がそのまま心に残ってしまっています。

 白洲次郎さんの「プリンシパルのない日本」という本、主人が好きで買ってきたので読みました。だいぶ前ですが、その当時は、すごい人だったのかなと思ったのです。しかし、その後、色々な情報が入ってきて、私が白洲次郎さんを批判したことも覚えているのですが、私のあの批判は正しかったのかな?と今になって不安になってきました。そして、以下の二つのサイトに行き着きました。


 特に、①は、私の心情をそのまま記してらっしゃる感じです。

 私には、白洲さん自身は、自己陶酔が強い人というイメージがありました。まあ、容姿がとても優れてらっしゃり、お洒落ですから、そう感じるのかもしれません。
 それにしても、東北電力の初代会長だったというのが、どうしても、いいイメージがわかないのです。電力会社ですから。
 東京電力と、東北電力時代の白洲次郎さんがもめたのは有名な話です。東京電力は確かに嫌な会社ですよ。

 東京電力フクイチは原発事故(テロだったという噂もありますが、まあ、津波の付随事故だったのではないかという思いの方が強いです。)だった一方、東北電力の女川原発はどうして無事だったのかしら?ってずっと思っていました。白洲次郎さんが安全を重んじる人だったので、その彼の影響が社風に生きていると、このサイトでは書かれています。

 また、白洲次郎さんと憲法についてですが、彼は、敗戦から、憲法が公布される前後で、GHQとの交渉の最前線に立っていました(この立場が一番有名ですね。)。

 最近、憲法を自分なりに考えてみようと思って、読んでみたりしているのですが、どうしても嫌いになれないのです。以前、私は日本国憲法は光からの贈り物だという旨を書いたと思うのですが、それに異論はないのです。白洲次郎さんも私が抱いた感覚と同様に感じてらしたようで、

「白洲は、『押し付けられたのは事実だし、素人が作った憲法だが、内容は良い。人の良いアメリカ人が占領軍となって作ったから、ずいぶん助かったんだ』と話していました」特に9条を評価していたという。(②)
 
と、書いてありました。私の感覚がそんなに的外れでなかったと知って、とても嬉しかったです。
 日本国憲法がソ連政府や中国共産党に作られたらそりゃ一大事ですが、中国なんてほぼ敗戦国みたいなもので、ソ連は不可侵条約を破ったとんでもないヤクザ国家ですから、作る立場にはいなかったのでしょう。本当にラッキーでした。

「プリンシパルのない日本」を、私が読んだ時期は、今よりずっと平和でしたから、あまり、軍や自衛隊を合憲にする必要はなく、平和を尊重したいと思っていました。今のような危機感がなかったのです。でも、今現在は、戦争放棄、自衛隊はどうしても引っかかるのです。それについて、しっくりとした言葉が、
「現在の厳しい国際情勢は、9条制定当初からは一変している。」(②)
と書いてありました。

(これ、これ、ここが違うのよ!って拍手喝采です。)

 日本を背負った白洲さんや吉田茂さんが、光と闇の両方を持ち合わせてなかったはずはなく、
「白洲が一筋なわでは理解できない人物であったことは、確かだ。」(②)

という言葉に尽きると思うのです。

 ***************************
先日、


 

というメッセージが届いた時に、日本政府も悪い連中(現天皇派)ばかりの牙城ではなく、いい人たちも活躍していた、そしていい人たちが悪評価されていたのだと、改めて気づきました。しかし、いい人たちは、悪い部分も持ちながら、日本を守ってきているのだなって、私はまだまだわからなかったんだなって未熟さ、浅はかさを痛感しました。

 白洲次郎さんは、軍の暴走が日本を守るために別の系統の陣頭指揮の下で行われたことや、あの戦争の本当の敵が誰だったのか、よく知ってらしたのではないかと思うようになりました。

 さらに、白洲さんは、日本国憲法を「国の根幹にかかわるものなのに、細かく書かれすぎている。もっとザックリ書けば良かった」とも述べているそうです(①)。

 これについては、憲法学者からたくさんの異論が出ていますが、私は、第九条をとって言えば、

第九条 
第一項 永久にこれを放棄する
第二項  全般(第二項は削除が好ましい?)

は細かすぎる記述だと思います。

 以下に第九条を載せます。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 そして、平和憲法の9条は、前述の別系統の陣頭指揮を将来的に封じ込めるために練りこまれた困った部分だとも思っていらしたのが、②でわかります。

「この憲法は占領軍によって強制せられたものである」「歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大なる罪悪である」

 後年そのごまかしが事実と信じられるような時がまさに今なのですが、その当時から、これを予言するのは、もはや神業だとしか言えないです。

 たかが、ファーイーストの小さな国に、こんな憲法まで作って押し付けて、武力封鎖させる必要があったのでしょうか?しかも、基本的に日本人は温厚です。何を恐れたのでしょうか?何を恐れて2発の原爆を落としたのでしょうか?白洲次郎さんはその答えを知ってらっしゃると思います。

 日本人の宝のような白洲次郎さんだったのかもしれないと思えてきました。誤解が解けて私にとってはとてもよかったです。

最後に、
 白洲次郎さんが、
一筋縄では理解できない人物であったこと、
そして日本を守ろうと懸命に生きた志士であった事は、
確かだ。

と書き記して、おしまいにします。

2018年4月24日火曜日

一言黒板

2018/4/24(火)
人間の私たちが誠意を見せないと、アマテラス尊達は岩戸から出てこれない。
岩戸に入られたのは、人間にもかなりの責任があるというか、人間の責任なんでしょう。
そうなんだ。よくわかりました。

2018/4/25(水)
最近は、当を得た、素晴らしいサイトが沢山あり、驚いています。足元にもおよびません。
また、修行を開始したならば、満業しないといけないのです。次には主婦業も大切です。
ご迷惑、ご心配をおかけしますが、ツイートも真理のことばに関するツイートに照準を絞ることが増えると思います。
でも、仏教の勧誘ではないので、お嫌いでない方は、たまに覗いてください。

2018/4/27
 明日から、GWですね❤️
 飲み過ぎなどには、お気をつけください。
 皆様、楽しい休暇をお過ごし下さい🙏🙏🙏
 では、おやすみなさい💤💤💤

2018年4月12日木曜日

PTAが悪いのではなかったのですね

 PTAが悪いのではなかったのですね。
 悪霊能師の業で、PTA活動が不快なものになっていったのです。
 この互助の活動で、精神的に成長する人もいたし、精神的に助かった人もいるはずです。私もそうでした。新たな出会いがなければ、それらはなかなか促進されませんよね。しかし、NWOを促進するグレイやアカにとって、この組織はとても邪魔でした。なぜなら、霊格の高い人が、私たち修行者のような専業主婦を助けてくれる組織だったからです。
 そこで、悪霊能師がPTAに入ることによって、スムーズに進んでいた流れが滞りました。10年前、私がPTAの委員をやった時に比べたら、昨年は、本当に妨害や脱線が多くひどかったし、引き継ぎ資料が破茶滅茶でした。私一人では運営がはかどらないところか、座礁でした。しかし、めげずにコツコツ活動を続けたおかげで、助け舟も出ました。

 めげない(実際はかなりめげていましたが、)ことと、
 コツコツと体を動かして活動すること、そして
 他者への配慮を怠らなければ、

 突破口はあるようです。
 
 そして、PTAの運営を苦しめている最大の原因は、出家者のような専業主婦が激減したことでしょう。8割の人が道理を理解すれば、悪党と手先の2割はなかったことにできるのです。只今、PTAではこの構成が逆転中ですから辛いのです。

 PTA活動を劣化させた原因として、女性の社会進出、男女雇用機会均等法などによって、女性が女性として考えることを軽視させたことが第一に挙げられると思います。これらの風潮は、「子供を産んだ女性の最大の役割は、その人の願いがどうであれ、子育てです。」という長らく人類が大切に守った道徳規律を破壊しました。どうして、私一人が、子育てで自分の能力を生かせる職業につけないのかしら?って今の教育を受けてきた人たちは考えがちですが、昔は、厳然と男性>女性と教えられていましたが、子育ては、相当、能力を使うことをみんなはよく知っていて、お母さんの女性の人権が蹂躙されていたとは思えないのです。群馬近辺は、どう見ても、やはりかかあ天下でしたよ。ご主人だって、浮気でよその女性となんてことは稀でした。今は、逆に、私のような専業主婦の生き方をしている人の人権が蹂躙されていると感じるのですが。

 話は変わりますが、子育てを保育園に委託して、親が責任を負わなくなった結果が、中学生らが本名や写真を載せてツイッターやる低脳さに現れていると思います。子供達のIQの低下を感じます。
 目立つ、自分を知らしめるということ以外に、人間として生きる本質は見出せないのかな?この本質を探るのが、あなたの人生の目的です。そのためには手段として、目立つとか、陰で努力するとか沢山の相が用意されているということを、大人は子供に言葉でも行動でも教えてあげなくてはならないのです。
 そして、目立つと言う相は陰で努力する相より遥かに少ないし、若いあなたたちは、人生80年を見越して、今は色々な力を養わなければならないインプット時期であって、アウトプット時期ではないと。そして、人生において、どの相も精一杯頑張るんだよって教えて上げたいです。

 生きるって本当に大変ですね。最近は、私も頻繁に逃げ出したくなります。

 そして、最後に、一つ言えることは、少子化で良かったということです。

 教育の犠牲で、お一人様になったシングルや、どちらかが不妊の夫婦は、産まないのではなく産めないのですが、それを余所に、すでにだいぶ前から、産める人はポコポコ産んでいます。私だって、若くて問題なく子供が産めたらもう一人ぐらい産んでいたと思います。でも、次々と生む人に対しては、「そんなに産んでどうするの?〇〇を量産しても仕方ないじゃん、もう少し、丁寧に育ててあげたら?」って…。だから、私が思うには、生む環境が整えば、女性もポコポコ生むんです。なので、実は保育所で少子化が防げるっていう理屈は、私は多少、怪しいと思うのですよね。だって、保育所の問題が浮上していた時から、すでに産める人はポコポコ産んでいたし、私のように暇なし子ちゃんは、それを横目で羨んでいたのが事実なのですから。現在、少子化でなければ、低IQの人間が増える一方で、その交通整理に労力が必要になり厄介になります。これだけは、勘弁してほしいな!

2018年3月27日火曜日

ひふみ神示 富士の巻より

ひふみ神示 富士の巻より
http://hifumi.uresi.org/03.htmlさんより引用
   第十六帖 (九六)
 あらしの中の捨小舟ぞ、どこへ行くやら行かすやら、船頭さんにも分かるまい、メリカ、キリスは花道で、味方と思うた国々も、一つになりて攻めて来る、梶(かじ)も櫂(かい)さへ折れた舟、何うすることもなくなくに、苦しい時の神頼み、それでは神も手が出せぬ、腐りたものは腐らして肥料になりと思へども、肥料にさへもならぬもの、沢山出来て居らうがな、北から攻めて来るときが、この世の終り始めなり、天にお日様一つでないぞ、二つ三つ四つ出て来たら、この世の終りと思へかし、この世の終りは神国の始めと思へ臣民よ、神々様にも知らすぞよ、神はいつでもかかれるぞ、人の用意をいそぐぞよ。八月二十四日、  の一二か三。

   第十八帖 (九八)
 神々様みなお揃ひなされて、雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神、五柱、七柱、八柱、十柱の神々様がチャンとお心合はしなされて、今度の仕組の御役きまりてそれぞれに働きなされることになりたよき日ぞ。辛酉(かのととり)はよき日と知らしてあろがな。これから一日々々烈しくなるぞ、臣民 心得て置いて呉れよ、物持たぬ人、物持てる人より強くなるぞ、泥棒が多くなれば泥棒が正しいと云ふことになるぞ、理屈は悪魔と知らしてあろが、保持(うけもち)の神様ひどくお怒りぞ、臣民の食ひ物、足りるやうに作らしてあるに、足らぬと申してゐるが、足らぬことないぞ、足らぬのは、やり方わるいのざぞ、食ひて生くべきもので人殺すとは何事ぞ。それぞれの神様にまつはればそれぞれの事、何もかなふのぞ、神にまつはらずに、臣民の学や知恵が何になるのか、底知れてゐるのでないか。戦には戦の神あるぞ、お水に泣くことあるぞ、保持の神様 御怒りなされてゐるから早やう心入れかへてよ、この神様お怒りになれば、臣民 日干しになるぞ。八月の辛酉の日、ひつくのか三さとすぞ。

① トランプ大統領がついに動き出しました。糸は完全に切れました。光の制御は厳しいと思います。
 鉄鋼関税は韓国、メキシコ、カナダには優しく、日本に厳しいとか…。別に、鉄鋼は日本にとって、アメリカは大きな輸出相手国ではないので、多少の痛手はあるのでしょが、日本に貿易赤字の是正を求めるには、もっと有効な品目があったはずです。当初は韓国やカナダへの圧力でしたが、筋が違ってきました。

→https://www.sankeibiz.jp/macro/news/180327/mca1803270500006-n1.htm

②  世界戦争のために、ロシアもアメリカと組んで、世界を乱し始めました(ロシアは昔っからか…)
 http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/nms/news/post_152046

③   ロシアのプーチン大統領は、続投。

④   中国の習近平主席は、長期政権の樹立。

⑤ 打って変わって、日本でも、森友を安倍ゲートと意味不な命名で、騒ぎだし、首相下ろしが激しくなってきています。安倍首相では、日本を世界大戦の火中の栗にできないからです。安倍首相は、世界大戦回避で動いています。

 ①〜⑤ から、もはや、世界が混乱するのは避けられなくなってきました。大難の部類に突入する可能性が高いとも考えています。アセンションが遅れているのですから、それを考えたら楽勝戦ではないのです。大難の可能性があると思って、気を引き締めて生活しないとならないということです。この世の自分に望みを残してはいけなくなってきました。
 アメリカを支えていた柱は、完全に日本に移りました。ドイツを支えていた柱も日本に移りつつあります。十柱が揃う場所は日本です(私としては、“かな”くらいで言い切りたくないのですが、こうなります。)。

 神示には、きちんと結果が書いてあります。これをひっくり返すのは、非常に困難だと思いますが、止められないのでしょうか?

 小難のシナリオはトランプ大統領の選出時に書き換えられたのかもしれないです。
 

2018年3月9日金曜日

「真理のことば」における存在の分類 ver.1(作業順序の予定)

 (「真理のことば」における存在の分類 (作業順序の予定)に改訂を加えました。)

「真理のことば」の“第5章 愚かな人”を考え終えたところで、残りのところを見渡しました。そして読誦時代から不明瞭に感じていた点を思い出しましたので、これを機に整理して行こうと思います。
 “第5章 愚かな人”では、人間を含めた多種多様な存在の中で、愚かな人と命名される種類の存在についての特徴を記述している章です。他にも、同様な章が6章があります(下記の参照)。不明瞭であった点とは、各種類の存在の共通点や相違点が読誦しているだけでは、漠然としていてはっきりしないということなのです。例えば、“修行僧”や“道を実践する人”や“出家者”、そして“バラモン”などなど、どの様な線引きで分類されているのか、ちょっと分かりにくいのです。

 どうも不明瞭になってしまう最大の原因は、章が離れているからだと思っています。“第5章 愚かな人”の見直しを終えたのを機会に、
“第5章 愚かな人”
“第6章 賢い人”
“第7章 真人”
“第14章 ブッダ”
“第19章 道を実践する人”
“第25章 修行僧”
“第26章 バラモン”
という順番で見直し作業を進めます。この見直し作業とは、各章の各詩から必要なものや不要なものを考察するということです。

 私は、
①本質的な魂の分類
②立場の分類(役職的立場とただの立場)
が混在しているという立場で、それぞれの言葉を下記の4点を論点として仕分けし、図の様に整理しました。 

(1)“愚かな人”、“賢い人”、“真人”は魂の発達段階の分類とします。“真人”には、“賢い人”という相は含まれています。
 また、“賢い人”は、“愚かな人”を概ね理解しますが、“真人”の全ては理解できません。しかし、“真人”は“愚かな人”と“賢い人”を完全に理解します。

(2)仏典によれば、真人とブッダは同類と考える向きがありますが、私は“真人”は、修行完成者で非超人的な存在、“ブッダ”は魂としては“真人”と同類ですが、超人的な存在として考えます。

(3)仏教が起こった頃は、インドでは「“賢い人”=“ブッダ”としていた」と言いますが、これについても、私は“ブッダ”に“賢い人”の相は含まれますが、同等とはせず、
“ブッダ”>“賢い人”とします。
 
(4)“修行僧”、“バラモン”は、私は役職的な立場の名称と理解します。そして、“道を実践する人”や“出家者”は、ただの在家か出家者かという立場の名称と理解します。




2018年3月7日水曜日

強制不妊手術

 最近の話題で、強制不妊手術がありますが、昨日の朝日新聞の夕刊でようやくアウトラインが見えました。
 知的障害者等の障害のある人の出産という壁ですね。
 

 障害のある方にも人権を含めて保障されるべきことはあると思います。何よりも、最期の瞬間に生まれて来て、生きて人生を送れてよかったな!という境地でこの世を去っていただけたらベストです。これは、私にしたって同じです。健常者と言われる人たち全てにとって同じです。ですから、それに向かうために、公は公費を投入して、障害のある人たちへの必要な援助・支援をすることは、公の義務だと思います。
 では、自分に障害があることがわかった時に、健常者と同様に子供を出産する権利があるのか?という問いは、人の生死を語るのでとても難しいことで、安易には語れないのが恐ろしいところです。しかし、自分の生を20歳〜50歳台で、かなり健常者より多く他所様の手を借りないといけない、自分の両親は歳をとって行くところで、果たして、その人たちが子育てを健常者と同等にこなせ、自分の子供を健常者として育て上げる事ができるのか?というところに、優生保護法の強制不妊手術の意図があったのかとも思います。

 正直言って、健常者と言われる私たち(私はかなり変ですが!!!)ですら、子育ては大変です。公立学校は何を教えているのやら???というご時世もお手伝いしてくれて、基本的な勉強まで家庭での協力が必要なのですよ。もちろん、乳幼児時代に、正しい日本語を語りかけて、子供が日本語を覚えるようにしなくてはなりません。これは、言語能力の発育にとても重要だと考えています。はじめに言葉ありきで、そこから思考の広がりができてくるのです。これらのことを考えると、やはり軽度であっても、知的障害がある人が子供を産んで育てるのは無理があるのではないかとも思うのです。

 私が知る明らかに知的障害を持つ母親の二人の小学生の子供は、障害のあるクラスにいます。PTAのお手伝いにも来てくれるお母さんですし、他の健常者で群れている感じの悪い人たちより真面目に仕事をしてくださるので、よほどマシですが、一つ一つの指示を出さないと動けないのです。そして、こちらが指示を出さないことや群れていて働かない人たちに、不満の態度を露骨に出します。私としては、「山住みの作業プラスこの人の相手か!」という気分でした。この女性が産んだ子供だって、似たか寄ったかで、彼女が子供を産まなければ、1名で済んだところを3名になってしまったのだと思うと、やはり大変な思いが頭をよぎりました。

 また、このような方々へ支出する公費も、健常者の税金ですから、知的障害者の結婚は素晴らしいけれど、出産は控えたほうが、ご自身も周りも楽だという考え方にも一理あるかと思われます。
 
 ただ、この朝日新聞の記事に紹介されている、現在60代で15歳で強制不妊手術を受けた女性は、知的障害を持っているのにも関わらず、自分の意思で60代になって裁判を起こすのは考えにくいですよね。彼女を利用している悪い人たちの想像も容易につくところが恐ろしくもなります。