2022年4月22日金曜日

霊界物語28巻 「跋(ばつ) 暗闇」

 https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm289901 さんより

(古語を 置き直した部分が一部あり。)


一、

現代の社会は力そのものが物を言ふ。

力なきものは立つべき道理も立たず。

立つべからざる無理も、力あるものには立派に立つ世の中だ。


二、

○○に対して或方面から行つた様な無茶を塵ほどでも行つたとすれば、忽ち悪魔呼ばはりを受け滅茶々々に打ち砕かれて了ふであらう。弱者は自ら犯さざる罪をも謝せねばならぬ。強者は自ら犯したる罪をも平気で押し通すと云ふ現状だ。強者は自ら悪をなしても、之を甘く世間を誤魔化して却て無上の善行とせらるる暗闇の世の中だ。


三、

誤解を解くには他の誤りを正すが第一の善法だ。自己の正しき主張を明白に徹底的に、相手方に合点の行く様に弁明し釈明する事に努力せなくては成らない。何程誤解されても構はぬ、正しき神は御照覧遊ばすからと、惟神主義を保持して袖手傍観的態度に出づる者は、自分の無能と無責任とを表白するもので、結局神の国の為には、卑怯者又は反抗者となるものである。


四、

相手方の言ひ放題に何でも彼んでも御無理御尤もと承服するは、決して誤解を釈くの方法に非ず。却て誤解を増大ならしむるものである。相手方の強者になると、此方の譲歩退嬰を以て謙譲の徳とせず、好意と認めず、却て驕慢の心を強め此方の行動を見て、

「吾輩の臆測した通りだ、さればこそ吾の抗議や言論や行為に対して、ただちに譲歩したのだ」

と言つて澄まし込んで了ふものである。


五、

いわゆる“ご無理ごもっとも”の譲歩的態度は、相手方の無理を是認する事となつて了ふ。換言すれば譲歩退嬰は誤解を釈く方法に非ずして却て相手方の誤解を裏書し、益々その誤解をして増長せしむるものとなるのである。之例ば或る商品に対し、即ち相手方の無暗に値切るに任せて、損をして迄大負に負る時は、相手方の買人は此方の好意に満足するよりも、却て吾が売主が本来の掛値を吹き掛けたけど、うまく値切つてやつた、然し未だ少し計り高値であったかも知れぬが なぞと誤解する様なものである。何処やそこい等の立派な方々の中にも、右様の態度を持する人が十中の十まである様に感じられてならぬ。これも依然難きを避け易きにつかむとする所謂惟神中毒の影像かも知れぬ。


六、

他の誤解を解く必要あるはさることながら、それに増して尤も大切なるは、他を自分から誤解せざることである。又今日の世界の状態に対しては、誤解せない様に努むるのが最も重大なことである。即ち兵家の所謂能く彼を知ることが肝腎である。孔子は人の己を知らざるをうれへず。人を知らざるをうれふと言つた通りである。


七、

人間の身体内には一方に天国あり、一方に地獄を包蔵して居るものだ。要するに人間は天使と悪魔との雑種児である。現代の人間に於て殊更にこの傾向多きを悟らねばならぬ。故に神示には之を中有人間、又は八衢人間とたとえられて居る。


八、

世界の状態を正しく解せよ。現代は悪魔横行の世なることを。国際連盟とか云つて、表面から見れば、天国の福音とも見るべき平和条約が結ばれた。併し人類平和の随喜者、世界泰平の夢想者の希望した程、期待した程、注文したる程に役に立つもので在らう乎。


九、

獅子や虎や、狼が疲労の結果、休息し眠を貪つて居るとても、決して猫や羊や兎には化るものでない。きっと 元気回復して眠より醒むる時が来るのは当然である。一時の暴風に逢つて意気悄沈し、手をこまねいて何もしないで、ただそばで見ている拱手傍観で自分の為すべきことを知らざる化け虎や、化け獅子や、化け狼がそこい等の山の麓に、永遠的に蟄伏して居るのを見ると、血湧き肉躍り、只一人焦慮し活躍せざるを得なくなって来る。


一〇、

一難来る毎にその信仰と勇気を強め、快活に愉快に立働く誠の神国魂の人は、果して幾人あるで在らう乎。


一一、

僅かに不断の活動を継続して居るものは、飛行将軍を先導に五字の教祖、及び日の出神の生宮と称する一派のかたがた位なものだ。しかしながら地方に至つては、それ相応の活動を行つて居る真人も少しはあるさうだ。之がせめてもの吾慰安となるばかりだ。


一二、

三五教、無抵抗主義の真諦を誤解して、如何なる暴逆にも、無理難題にも屈服し、おぼしめし次第だとか、御尤も千万だとか言つて、極端な無抵抗主義を標榜するのも一つは考えものだ。

 遂には卑劣と、柔弱と、節操のない人間の卵とならなければ幸だ。只世間の評判や、新聞の悪評や、其他の圧迫などを気遣つて、正義の大道を歩むことさへ恐るるに至らば、最早其の人間は駄目だ。製糞器か、立つて歩行く樹木か、拙劣なる蓄音機の様なものである。斯うなれば最早人格も何もあつたものでは無い。他人の尻馬に乗る許りが人間の勤むべき道では有るまい。


一三、

世間の評判や新聞の批評ほど当てにならぬものは無い。評判が良いからと思つて安心して居ると、忽ち背負投げを喰はされるものだ。一昨年以来悪鬼羅刹の権化の如く悪罵され、全国の新聞紙上に曝された東西二人の男女があつた。然しその男女に直接面会し、その思想や行為や態度を実見したものは、百人が百人まで世評や新聞記事の当にならないばかりか、全く正反対の人物たることをうなずくであらう。黒雲に包まれたる大空の月も、仇雲の扉をひらいて其瑞々しい姿を現はす時は、暗黒の地上も直に瑞光燦爛たる神姿を見る事が出来るであらう。(了)

(昭和一〇・六・八 王仁校正)