2018年2月16日金曜日

新羅・百済・高句麗(366〜670白村江の戦い)

1.新羅・百済・高句麗の年表

366年 一次羅済同盟の結成
369年 高句麗は百済を攻め雉壌の戦いで敗北する。
371年 百済は高句麗の平壌城を攻め、高句麗故国原王戦死
372年 東晋は百済王余句(近肖古王)を鎮東将軍領楽浪太守にする
384年 晋から百済に仏教(仏魔)伝来
397年 百済は倭国と通好し、太子腆支を人質とする

[400-α 新羅の裏切り(高句麗への接近?真は不明)により一次羅百済同盟の決裂]

433年 二次羅済同盟の結成
455年 高句麗は百済を撃ち、新羅が百済を救う
490年 北魏の数十万騎が百済を攻める(南斉書)
493年 新羅・百済婚姻により同盟強化(新羅が百済へ花嫁を送る。)
495年 高句麗、百済の雉壌城を攻め、新羅が百済を救援する。
503年 百済王武寧、倭国に遣使
523年 百済聖王(聖明王)即位
538年 百済聖王は遷都し、国号を南扶余と号す。
548年 高句麗は百済を攻撃し、新羅が百済を救援する。
551年 百済聖王、新羅と伽耶の援助により高句麗軍を破る。

554年 百済聖王、新羅の管山城を撃ち敗死。⇦百済の発狂現象開始
562年 高句麗、百済の熊川城を攻撃。
616年 百済が新羅の母山城を攻撃。
618年 鮮卑系国家唐の建国
638年 百済が新羅の独山城を攻撃。
642年 百済と高句麗が新羅を攻める。
643年 百済と高句麗と同盟(麗済同盟)。
655年 百済と高句麗が新羅を攻める。
660年 唐・新羅連合結成
660年 唐・新羅連合軍(唐・新羅の同盟)、百済を滅ぼす。
663年 倭国の百済救援軍、白村江で唐軍に大敗。
[新羅への度重なる唐からの属国要求がある。]
670年 唐・新羅戦争で朝鮮半島は完全に唐の属国となる。

894年 遣唐使は菅原道真公により廃止
907年 鮮卑系国家唐の滅亡


2.〜523年までの新羅と百済と高句麗と日本

古い時代においては、新羅と百済は南下してくる高句麗(女真系ツングース系)と必死で戦って来たのが見えてくるでしょう。“倭”とは日本のことですが、その他のネット上の文献を見ると、新羅と百済と伽耶は倭という国と国交を持っていて頻繁に行き来をしていたようです。年表では、397年の百済のことを書いておりますが、他にも沢山の情報がネットに載っています。したがって、この時代は日本と新羅と百済は、関係が悪い状態であったとは考えにくいです。

 このような関係に、多分、はじめに影がさしたのが、
372年 東晋は百済王余句(近肖古王)を鎮東将軍領楽浪太守にする
384年 晋から百済に仏教(仏魔)伝来
でしょう。この出来事の後も100年以上は羅済同盟(新羅と百済の同盟関係)は続きますが、この仏魔により百済国が徐々におかしくなっていきます。私の推論ですが、一次羅済同盟の決裂もこれが原因ではないかと思っています。
 百済は常に先制攻撃の対象になっていますが、これを新羅が助ける形が多いです。
 一方、日本と極めて縁が深いとされる百済王武寧から聖明王の期間では、新羅と百済は同盟を組んで頻繁に高句麗と戦っています。この当時、新羅と百済の多くの人が日本に渡ってきていたようです。桓武天皇の母上は、高野新笠というお名前ですが、百済王武寧の末裔が日本で帰化した家の出自という伝承があります。これについては定かではないのですが、荒野新笠さん自体の先祖は彼女を遡ること200年以上は日本で暮らしているということです。したがって、羅済同盟と日本との関係が良好であった百済王武寧時代の西暦500年頃に百済、もしくは新羅から日本に帰化した朝鮮人の末裔が高野新笠さんということになります。したがって、高野新笠さんにもかなりの日本人の血が流れているであろうこと、そして日本と友好的な朝鮮人が祖先であったことが推察できます。高野新笠さんの家は、お名前の“新”の字から考えると、新羅出自かなとも思われますが、一応、一般的には百済出自の家柄ということになっています。どちらの国でも、この当時は日本と友好的であったと考えて差し支えないでしょう。
 このことから、桓武天皇のお母上が、100%の朝鮮人とも考えにくく、また朝鮮人として思い浮かべる現皇室やチョンと言われる人種とは、全く異なっているということが容易に推論でき、さらに、考えを広げて、現皇室やチョンと言われる人種は高句麗や高麗の流れを汲む民族であろうということが容易に推察されます。

2.523年以降の百済の変貌と朝鮮半島

 ここからが悲劇です。523年以降、百済聖明王が即位してから、百済に渡った仏魔の発現により、百済の動きがおかしくなります。その最たるものが以下のものです。
 554年 百済聖王、新羅の管山城を撃ち敗死。⇦百済の発狂開始
 結局は、百済は新羅を裏切り、高句麗と同盟を組みます。この時、既に日本では神道の守り手の物部氏が乗っ取られ滅亡し、なんとか正しい仏法を保ち正しい統治を行なっていた聖徳太子と蘇我氏(秦氏出自)一族も百済経由の仏魔(チョン+チョン藤原氏)との苦戦を強いられていました。これにより、苦しい立場の立たされた新羅は、唐に助けを求めます。しかし、中国は既に前漢を最後にまともな王朝が途絶え、その後は、鮮卑系の王朝が続いて、唐もこの中の一つです。結局は、新羅が唐の助けを借りて、白村江の戦いに勝利しましたが、悪魔のシナリオ通り、鮮卑系王朝唐の属国と化して行きます。それに争うように
670年 唐・新羅戦争で朝鮮半島は完全に唐の属国となる。
 という戦いをおこしますが、新羅の力は及ばず敗北を喫します。そして、高句麗は朝鮮半島から退散しましたが、朝鮮半島が鮮卑系王朝唐の支配下に下るのです。

3.感想

 新羅は、最後まで本当によく頑張りました。そして、百済も悪い印象ばかりだったのは、“2.  523年以降の百済の変貌と朝鮮半島”の部分しか知らなかったからです。新羅、百済、伽耶という朝鮮半島の国々と日本は仲が良かったということを知ることができて、よかったです。
 百済、日本と仏魔に落ちて新羅がどんなに苦しかったか、それを思うと涙が出てきます。そして、物部氏を頼りとして帰化した技術と仏法を持って渡来した人たちと庶民が、物部氏の復活を心から待ち望みながら、奈良の飛鳥で光を保つ政を必死で守った映像が頭の中を駆け巡ります。私は、普通の名もない家の出自で家系図を元に宣言するのではありませんが、神道はさほど馴染みがなくとも否定的ではないし、真面目な仏教徒ですから、間違えなく秦氏の末裔でしょう。奈良に旅行に行った時の、湧き上がる悲しさと懐かしさの謎がようやく解けてきました。
 また、桓武天皇のお母上が、現皇室のようなチョンではなく、きちんとした朝鮮人の末裔であったということが調べられてとても有意義でした。